2022年4月24日

ご存じのように、あなたがたが祖先伝来以来のむなしい生き方から贖いだされたのは、銀や金のように朽ちるものによらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によったのです。

ペテロの手紙第一1章18~19節

敬拝

  • 賛美 主のご栄光をほめたたえます
  • 祈り
  • 勧め 「パンの家」ルツ記1章1~22節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 本日2022年4月24日(日)は、主イエスの十字架を記念して、聖餐式をささげます。主を救い主として信じておられる兄姉はお預かりください。
  • 2022年5月10日(日)は「母の日」です。母は、創世記3章20節で、エバを「生きるものすべての母」と記されています。いのちの継承に与えられてきた母に感謝します。

ディボーションノート「水路のそば」

4月25日(月)ヨシュア記15章1〜63節
4月26日(火)ヨシュア記16章1〜10節
4月27日(水)ヨシュア記17章1〜18節
4月28日(木)ヨシュア記18章1〜28節
4月29日(金)ヨシュア記19章1〜51節
4月30日(土)ヨシュア記20章1〜9節
5月1日(日)詩篇105篇1〜45節

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

パンの家

ルツ記1章1~22節

~救い主の家系を与えられたナオミの生涯と奇跡~

アダムとエバから始まった人間の歴史は、苦しみと悲しみの歴史とも言えます。聖書は主に3つのわざわいを記しています。それは、戦争と疫病と飢饉です。

本書からは時代は詳しくわかりませんが、ダビデの時代の少し前、「士師記(さばきつかさ)」が各地方を治めていた統一王国時代の少し前ということになります。

場所は、ベツレヘムから始まります。ルツ記1章1節には、「この地に」飢饉があったとあり、ユダのベツレヘム出のエリメレクが、妻ナオミを連れて、モアブに行き、寄留したと記されています。

今、ウクライナがロシアから攻められ、多くの難民が国外に避難しています。国民の1割以上です。先祖から居住してきた地を離れることは、難しい決心だったでしょう。エリメレクとナオミには、2人の息子マフロンとキルヨシがいたとあります。

ルツ記1章3節からは、モアブで夫エリメレクが死に、ナオミと2人の息子の3人家族となります。ナオミは、頼っていた夫の死によって、不安が襲ってきたかもしれません。

ですが、祝福もありました。2人の息子がそれぞれモアブの女性と結婚しました。1人はオルパで、もう1人はルツです。その10年後、2人の息子も死に、ナオミは2人の嫁と取り残されることになります。

ルツ記は、1章1~6節までに、長い年月が経過していることを示しています。6節、ナオミは寄留地モアブから、故郷ベツレヘムに帰る決心をしています。飢餓が去ったことを聞いたからです。ナオミは「主がご自分の民を顧みて」と主をほめたたえています。

ナオミは、2人の嫁を連れて故郷に向かって出発します。

ですが、ナオミは選民です、もし、異邦人と帰ってくると、2人の嫁は差別されるかもしれない、また、モアブ人とは違った文化に馴染めないかもしれない、と考え、2人の嫁にモアブに残るよう強く説得しました。

しかし2人は、「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります」と、ナオミと暮らすことを強く望んでいます。

ルツ記1章11節では、ナオミは面白いことを言っています。「私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるというのですか」と。これは、嫁はもし夫に先立たれたら、弟の妻になるという律法(申命記25章5節)を指しています。

結果、オルパはモアブに帰り、ルツはナオミと一緒に行く決心をしました(ルツ記1章16~17節)。

ナオミは、自分の人生を「苦しみ」と証しています。飢饉は、この家族の歩みを180度変えました。飢饉がなければ、違った人生だったでしょう。しかし、飢饉から苦しみが始まったのです。しかしこの出来事は、ナオミにとっては新しい家族を得ることになり、ルツにとっては新しい関係(交わり)母と民と神を得たのです。

ナオミの名前の意味は「喜び」です。自分では「苦しみ」と思っていましたが、その喜びは、ナオミ自身もその目で見ることのできなかった、自分の救い主の降誕に用いられたのです。マタイによる福音書1章5~6節と子孫にはダビデがいて、このダビデから、イエス・キリストが生まれたのです。

苦しみばかりと思える人生かもしれません。しかし、そこに本当の喜びが裏打ちされていたのです。まさに「ベツレヘム」は「パンの家」です。「わたしたいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ヨハネによる福音書6章35節