2020年12月20日

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えれる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

ルカによる福音書2章10〜11節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「救い主のご降誕」マタイによる福音書1章18〜25節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 2020年12月20日(日) 10時 クリスマス礼拝
  • 2020年12月24日(木) 19時 燭火礼拝
  • 2020年12月27日(日) 礼拝後 大掃除
  • 2021年元旦礼拝は1日(金)午前10時からです。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

12月20日(日)10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
  教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
12月22日(火)15:00聖書の学び
12月23日(水)20:00聖書の学びと祈りの時
12月26日(土)11:00聖書の学び

 

メッセージ

「救い主のご降誕」

マタイによる福音書1章18〜25

12月25日はイエス・キリストの誕生日とされています。世界には70億人以上の人口がありますが、イエスの誕生は人々のとは違う独特の意味と目的がありました。

1、預言されたメシヤ

アダムが罪を犯すとすぐに創造主は「救い主」の預言を与えます。創世記3章15節「女の子孫」です。この方は、サタンの仕業を打ち壊します。エバは初めて生まれた「カイン」が救い主だと勘違いします。カインは罪の性質を持っていることをすぐに露呈してしまいました。

・ノアの時代、アダムから1000年後、神はノアと契約し「洪水によって滅ぼさない」それは「後の子孫」によって。創世記9章9節

・アブラハムの時代、ノアから1000年後、神はアブラハムと契約を結びます。それは「約束の地」の契約で、「後の子孫」創世記12章7節によることが示されています。

・ダビデの時代、アブラハムから1000年後、神はダビデと「一つの家(神の国)」の契約を結びます。それは、更に詳しく「あなたの日数が満ち、あなたが先祖たちとともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる」サムエル記第二7章12節。ダビデが死んだ後、王国は滅び、ダビデの子孫として「世継ぎの子」が生まれると。

イエスは「アブラハムとダビデの契約」の成就者として降誕されました。旧約では、「ひとりの子孫」として預言されている未来に来られる救い主を信じたのです。新約では、過去に受肉された救い主を信じているのです。神は時間を超えられrた「永遠」の全能者です。

この世では、生まれてから優れた功績を残した方が神格化されますが、イエスは預言されて生まれてこられ、神が人となられたのです。

2、処女降誕です。マタイによる福音書1章23節

これは大切な真実です。人が神を信じたくない、あるいは非科学的、非常識だと言われます。でもこれは大切です。それはアダムの罪の継承を断絶した、原罪の影響がない完全な人としての降誕を意味しています。

マリヤとヨセフには父母がいます。イエスは「父」を必要とされなかったのです。父はアダムの原罪、罪と死という「負」を相続しているからです。イスラエルでは「父の子」として表記されます。例えば「アブラハムの子」とか「ヤコブの子」とかです。でもイエスは「マリヤの子」と呼ばれました。ローマ人への手紙5章12節に「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので。。。」処女降誕は、人間の罪の連鎖を断ち切る方法だったのです。父なる神は、私たちの病、傷、すべての咎を、罪のないイエスに負わせたのです。イザヤ書53章4〜6節

3、インマヌエル マタイの福音書1章23節

「主ともにある」という意味ですが、それはイエスを救い主として信じ受け入れた者は「主のいのちを共にする」約束の成就です。

次に「ヨセフ」についてです。マリヤと婚約していたヨセフは「正しい人」でとあります。正しいと聞くと私たちは正義の味方、敬虔なユダヤ教徒。。。など考えられるが「正しい」というのは正しい「判断」「選択」を指します。ヨセフはマリヤの懐胎を知った時、内密に離縁しようとします。それはマリヤのためでもあるし自分のためでもあります。「思い巡らしていると」はなかなか決心がつかなかったようです。そこに主の使いがあらわれ「胎に宿っているのは聖霊による」と。ヨセフの正しさは神のみことばを選んだことです。例え人から悪者、愚か者の汚名を着せられてもです。メシヤもイザヤ書53章1〜3節にあります。

それほど大切な選択だったのです。究極の普遍的な「喜びの報せ」です。