御使いは女たちに行った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを探しているのはわかっています。ここにはおられません。前から言っておいたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」
マタイによる福音書28章5~6節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」マルコによる福音書12章24~27節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 本日2022年4月17日(日)午前10時より、イエス・キリストの復活を記念し、復活祭合同礼拝を行います。主イエスは十字架で死なれ、三日目によみがえられた記念の礼拝です。早朝礼拝はお休みです。
- 来週2022年4月24日(日)は、主イエスの十字架を記念して、聖餐式をささげます。主を救い主として信じておられる兄姉はお預かりください。
ディボーションノート「水路のそば」
4月18日(月) | ヨシュア記9章1〜27節 |
4月19日(火) | ヨシュア記10章1〜43節 |
4月20日(水) | ヨシュア記11章1〜23節 |
4月21日(木) | ヨシュア記12章1〜24節 |
4月22日(金) | ヨシュア記13章1〜33節 |
4月23日(土) | ヨシュア記14章1〜15節 |
4月24日(日) | 詩篇104篇1〜35節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
マルコによる福音書12章24~27節
いわゆるキリスト教は、2000年ほど前に始まりました。人に、イエス・キリストという救い主の名を与えられたのはこの時代です。それ以前は、創世記3章のサタンの頭を踏み砕く「女の子孫」といわれ、やがてこられる救い主を待ち望む歴史が始まったのです。アダムたち最初の家族も、全能の神に祭壇を築き、礼拝を始めています。この頃の人は、数百年生き、やがて死にました。遺体をどのように扱ったのかは、聖書には記されていませんし、聖書以外の記録も見当たりません。
では、遺体をどのようにしたのでしょうか。最初に記されているのが、アブラハムの墓「マクペラ」です。そのことから、他の動物のように、捨てたり、放置したりしなかったことがわかります。遺体を丁寧に扱ったのです。それは「先祖にたいする尊敬」があります。
私たち日本人も、文化的に先祖を大切にします。これは、聖書から来ている習俗と言えます。聖書には、系図が多く記されています。神は、天地万物の創造主であり、最初の先祖「アダム」を造られました。創世記には、アダムとエバを造られ、エバを「すべての者の母」と呼び、セツ、エノシュ、ケナンと続いています。そのアダムから2000年後、アブラハムを選ばれ、御名を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、死んだ者の神ではなく、生きる者の神と呼ばれました。それは。死んだ祖先は今も生きているという信仰の証でした。復活信仰です。
そして、人が地上の生涯を終えるとき、墓を造り、丁寧に葬りました。特に、埋葬のために「ミイラ化」したり、横穴を掘って遺体を寝かせ、骨だけになったときに洗骨(水や油が用いられ)し、安置したのです。埋葬の方法は、時代や民族によって違います。土葬、風葬、水葬、火葬等です。
では、墓はどのように考えればよいのでしょうか。先のアブラハムは、妻のために高価な墓を買いました(創世記23章)。ヤコブも、この墓に葬られることを求めました。また。「ミイラ化」したと記されています。意味は「復活」です。昔の人は、身体の復活を信じ、待っていたのです。エルサレムの旧市街の外側には多くの墓があり、全部足を町に向けて埋葬されています。「起き上がる」ためだそうです。
墓の形は、内地と沖縄で違います。大和墓は「仏舎利」の形だそうです。ですが、沖縄の墓は、昔のイスラエルの墓と似ています。
これは、仏教の影響が少なかったからかもしれません。仏教も、釈迦が生まれたのが、BC556年4月4日とされていますが、それ以前の記載がありません。後になって、「大日如来」を作り、創造主的にしましたが、聖書は創世記1章1節に「初めに神が天と地を創造した」と、すべてのものが神によって造られたことから始まっています。もちろん、人間が造られる前の出来事からです。
釈迦は、母マヤのわきの下から生まれる処女降誕で、故郷に帰っている時に生まれるという、どこかで聞いたことがあるような話です。その教えは「一切皆空」となかったことにし、先祖供養という考えはありませんでした。聖書の神は、「わたしは有る」と宣言されました。
聖書の、先祖を大切にすること、墓を大事にすることなどが示されていますが、申命記18章には、「占いをする・・・、そして、死人に伺いを立てる者があってはならない」と、霊媒、口寄せなど、吉凶を死者に聞くことが禁止されています。
人は、死も、時間も超えて生き続けるいのちとして創造されました。それは、アブラハムもイサクもヤコブも「生きているもの」であり。イエスが弟子たちを連れて高い山に上られ。モーセ(この時から1400年前の人)、エリヤ(同じく500年前の人)と、イエスが交わりをしている様子が示されています(マタイによる福音書17章)。また、ラザロの姉マルタに、よみがえりを教えられたのです。使徒たちの宣教のテーマは「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはこのことの証人です。」(使徒3章15節)です。
イエスの来臨は、終わりの時の「しるし」です。人は、有史以来、復活を信じ、永遠を待ち望んでいたことがわかります。死は、終わりではないのです。