主に感謝するのは良いことです。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌うことは、朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは。
詩篇92篇1~3節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「人は神の御顔を避けられるのか」ヨナ書1章1~3節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 緊急事態宣言が解除され、日常の生活が戻りつつありますが、続けて対策が必要です。集まりにおいても、制約がありますが、行事を再開できますようにお祈りします。
- 2021年のクリスマス礼拝は、12月19日午前10時からを予定しています。
- クリスマスへ向けて、子供たちへのプレゼント用のお菓子を集めています。ご協力お願いします。(12月5日まで)
ディボーションノート「水路のそば」
11月29日(月) | ミカ書3章1〜12節 |
11月30日(火) | ミカ書4章1〜13節 |
12月1日(水) | ミカ書5章1〜15節 |
12月2日(木) | ミカ書6章1〜16節 |
12月3日(金) | ミカ書7章1〜20節 |
12月4日(土) | ピリピ人への手紙1章1〜30節 |
12月5日(日) | 詩篇84篇1〜12節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
人は神の御顔を避けられるのか
ヨナ書1章1〜3節
私たち家族が淡路島の洲本市に住んでいた時、ジャスコ(現在のイオン)ができました。そこにはマクドナルドもあったので、家族でハンバーガーを買いに行きました。マクドナルドは大変混雑しており、淡路島にこんなに人がいたのかと思えるほどの群集でした。並んでいる時、子供たちがいなくなりました。迷子です。ハンバーガーどころではありません。私は、すぐに子供たちを捜しました。そして、2階の階段から降る時に、1階のフロアーに子供たちの姿を見つけました。ただショックだったのは、子供たちは半べそをかいて不安だと思っていましたが、実は楽しそうに徘徊していたのです。私がこんなに心配しているのにです。
今日のみことばは「ヨナ書」です。アミタイの子ヨナに、主の言葉がありました。ヨナは預言者のようです。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」ニネベの悪が神のみもとにまで達したようです。しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュ(スペイン)に逃れようとします。ニネベとは真逆の、西に向かったのです。ヨナは、どうしてもニネベに行きたくなかったのです。以前、韓国から来られた宣教師にお会いした時に、彼は「私は、一番行きたくない日本に来ました」と話していました。イスラエルの民にとって、ニネベ(アッスリヤ)は憎い敵でした。何度も攻め込まれ、その度に、人命も作物も奪われました。
もう一点、こんな悪い民でも、もしかしたら悔い改めるかもしれないという恐れもありました。案の定、この予想は見事に的中し、神が「滅ぼされる」と聞いた時、王は「人も家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いして、おのおのの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ、・・・」(ヨナ書3章9節)と命令しました。
ヨナは、「主の御顔を避けて」スペイン行きの船に乗りました。彼は、神の目から逃れたと思い、安心して船底で寝ていました。それは、嵐が来て船が波にもまれ沈みそうになっても気づかないほど、ぐっすりとです。
危険を察知した船長がヨナのところにきて、「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって。私たちは滅びないですむかもしれない。」(ヨナ書1章6節)と言いました。
この世の宗教の点綴です。多くの人は、自分で選んだ、あるいは、先祖から伝わった神を持っていて、祈ったり願ったりします。答えはあるのか、助けてくれるのかはわかりませんが、一応熱心にお願いしてみるのです。
ただ、船中の人たちは、「どうしてこんな目に合うのか」「もしかしたら問題のある人がいるかもしれない」と考え、くじびきをしました。そのくじびきは、ヨナに当たります。そこで彼らは、「だれのせいで、どうして」とヨナを問い詰めます。ヨナは、自分はへブル人で、海と陸を造られた天の神、創造主を恐れている、その神の「御顔を避けて」いることを話しました。
戸惑っている人々に「私を捕まえて、海に投げ込みなさい。そうすれば・・・」と助かるために、「自分のいのちを犠牲にしなさい。暴風は私に原因があるのですから」と言いました。
苦難、災い、を私たちは誰かのせいにします。政府が悪い、社会が悪い、知人が悪い・・・。私たちは、苦難の原因を誰かのせいにしている時、そこに解決はありません。聖書は、誰でもなく自分に原因があると認めることから、解放が始まることを示しています。
面白いことに、船中の人たちは、それぞれ偶像を持っていました。しかしこの時、聖書の神、創造主を知り、信じ、「そこで彼らは主に願って言った。」(ヨナ書1章14節)と告白しています。神は、すべての人が悔い改めることを望んでおられます。エリコで初めて会った「ザアカイ」の時のように、すべての人の名を知っておられるのです。すべての人は「神の作品」ですから。