全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。
詩篇100篇1〜3節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「みことばの約束に生きる」ルカによる福音書5章1〜7節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 緊急事態宣言が解除され、本来の生活に徐々に戻りつつあります。会堂での礼拝も可能になりますが、ウイルスの影響がなくなったわけではありません。そのための対策をしつつ、回復へと前進したいと思います。
ディボーションノート「水路のそば」
10月4日(月) | 創世記29章1〜35節 |
10月5日(火) | 創世記30章1〜43節 |
10月6日(水) | 創世記31章1〜32節 |
10月7日(木) | 創世記31章35〜55節 |
10月8日(金) | 創世記32章1〜32節 |
10月9日(土) | 創世記33章1〜20節 |
10月10日(日) | 詩篇75篇1〜10節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
みことばの約束に生きる
ルカによる福音書5章1〜7節
ガリラヤ湖畔で宣教を始められた主イエスに最初に従った弟子についてのみことばがあります。彼らの職業は魚を獲る漁師でした。
ルカによる福音書5章では、イエスの話を聞こうとして群衆が集まってきた様子が記されています。
彼らは夜通し漁をしたのですが、魚は一匹も獲れず、おそらく失意のうちに次回のために網を洗っていました。大漁であれば、身体の疲れもそんなに気にならなかったでしょうが、一匹も獲れないという現実に疲れも倍加していたことでしょう。
そこの岸辺にイエスが立たれたのです。現在この場所に行くと、以前「キブツ」であった建物がホテルになっています。多くの巡礼者が宿泊する、風光明媚な場所です。
岸辺には2艘の舟があり、イエスはそのうちのペテロの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出されるように頼まれました。ペテロの網はすでに舟からおろされているからでしょうか、イエスの頼みにOKします。イエスは舟に腰を下ろし、みことばを教え始められます。
この時ペテロはどこにいたでしょうか。おそらく、舟を陸からだすために乗り込んでいますから、イエスの背後でメッセージを聞いていたと思います。
イエスは、群衆に語られているようですが、実は背後にいるペテロに語られていたと思います。ペテロは、ルカによる福音書4章で、姑の熱病が瞬時にいやされたのを見ました。病が瞬時にいやされるというのは、まさに「神のみわざ」に違いないと思えます。
群衆に語られているイエスを背後から見ていますが、ペテロ自身「この方はどなたなのだろうか」と考えていたことでしょう。まだ、イエスをメシヤとして信じることはできなかったかも知れません。
そのペテロに、主は語られ、次に浅瀬にいた舟を「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と命じられます。イエスのペテロへの言葉は、頼みから命令に変わっています。
聖書を読むとき、聞くとき、大切なことがあります。まだ、語られるみことばの解釈をします。「神は何をいわれているのだろう」と。この場合、イエスは2つのことをペテロに言いました。1つは、「舟に乗って少し漕ぎ出してください」と頼まれました。話しが終わると、今度は「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と。彼らは漁師ですから、漁師に漁をしなさい、と命じています。私たちに、今の仕事を捨てて漁師になりなさい、と命じているのではありません。
次は、みことばの個人的な解釈です。漁師でもない私たちに、主は何を命じておられるのでしょうか。それは、一人一人違います。共通していることは、次の段階、深みに進みなさいということです。
ペテロはプロの漁師です。そのプロに、大工の息子が命じているのです。あなたに漁の何がわかるのですか、と反論できるでしょう。私の経験では、昼に網を下ろしても魚は捕れないですよ。
「信仰」とは、何を何処におくのかです。理性や経験ではありえない、起こりえないことですが、「みことばの約束」におくことです。
「ペテロはプロの漁師です。経験では捕れないでしょう。でもおことばですからその通りにします。」礼拝では、みことばが語られます。それは、宿題です。「従ってみましょう」と。魚の祝福は、主がすでに備えられていたのです。