2021年5月16日

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

マタイによる福音書11章28節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「いつも主にあって喜びなさい」ピリピ書4章1〜7節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 会堂の外壁工事が始まっています。危険ですので足場には触れないようにお願いします。また駐車場も狭くなっていますので、お互いに配慮しましょう。
  • 本日も、会堂で早朝礼拝、10時礼拝、そして配信での礼拝が守られます。また、聖書の学びも、火曜日午後3時からと、土曜日午前11時からです。個人的な学びもあります。特に三密に気をつけて座席を確保してください。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

「いつも主にあって喜びなさい」

ピリピ書4章1〜7節

 1、「笑い」と「喜び」の違い

聖書には「笑い」という言葉が40回以上出てきます。

私たちは笑うことが好きですし、笑いは心と体の健康にも役立ちます。今は不安の時代です。だからこそ、笑いが必要とされているかもしれません。ただ、笑いには二通りあります。人の失敗や弱さ、間違いなどを種にします。しかし、神が私たちに求めているのは「喜びの笑い」です。箴言17章22節「喜んでいる人は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。」とあります。

2、アブラハムとサラ夫婦の「二つの笑い」

アブラハムの笑い:創世記17章17節で、サラに子供が与えられることを聞いて「アブラハムはひれ伏して、笑った」この夫婦に子供が生まれる状況はありませんでした。ですが、アブラハムはそのような常識、状況になくても、神のみことばの実現に信仰を置いて、結果、笑いという喜びが込み上げてきました。

サラの笑い:創世記18章17節で、神が夫に告げているみことばを後ろで聞いていました。サラの反応は「サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」」と否定の笑いをしています。

アブラハムとサラは、同じみことばを聞いています。しかし、反応は全く逆です。アブラハムは「ひれ伏して」、サラは「心の中で」とありますが、これは冷ややかな笑いです。それは、見ているものの違いです。アブラハムは神のみことばを見ていました。サラは自分が置かれている状況を見ていたのです。

世間の人の持っているクリスチャンの特徴は、穏やかで、怒らず、笑顔でいつも喜んでいる人、というのがあり、どこかで自分もそうなりたいという願望があります。しかし、現実は違います。ところが聖書は「いつも喜んでいなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」など、到底達し得ない課題を与えます。もちろん「喜びと笑い」は違いますが、到底笑顔になれない、喜べない現実が立ちはだかっています。ではなぜ喜べないのでしょうか。

3、使徒パウロの場合 ピリピ書4章1〜7節

ピリピ書は獄中書簡です。52頃、ローマの獄中からピリピ教会に手紙を託したのです。パウロ自身、閉じ込められ自由を奪われていました。自分の置かれている状況を見れば、自由も希望も平安もありません。そのパウロが「いつも主にあって喜びなさい」という時、自身が喜びで満たされていたのです。

現在、会堂礼拝が制限されています。行動も自由もです。このような状況は今まで経験したことがありません。毎日毎日、感染者の数が報告され、息が詰まるほどです。でも、どうしてでしょうか。問題ばかり見ているからです。確かに、感染することは怖いです。その対策も十分にするべきでしょう。ただ、これで100%大丈夫だと言い切れないのです。だんだん不安になってきます。

パウロはとても喜べない状況でした。自身は投獄され、働きもほとんどできません。

ピリピ書4章1節でパウロは、ピリピの兄弟姉妹が「喜びで冠」と証しています。

A.土台の大切さ

パウロのいのちの存在の土台は、キリストでした。世でも自分でもなく、キリストの十字架と復活という土台の上に自分が立てられていたのです。土台は「堅い」のです。「いのちの書に名が記されている」「国籍は天にあり」何があっても揺れ動きません。

B.喜びは相手

その上で、パウロの愛し慕う兄弟姉妹が、パウロの喜びだったのです。

このような状況で、共に神を礼拝する仲間がいます。会堂で、配信で、主を礼拝している兄弟姉妹が喜びなのです。

「いつも主にあって」の、主にあるというのは、「キリストを土台として」の意味です。これが喜びでなくて何を喜べるでしょうか。また、「共に戦っている同労者」この喜びはなくならないし、動かされることはありません。