2021年3月28日

これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに委ねられました。

コリント人への手紙第二5章18節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「対価」出エジプト記21章23〜25節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 2021年のイースターは4月4日です。4月2日に主イエスは十字架で死なれ、4日の朝早く、よみがえられました。十字架と復活は福音の根幹です。今年のイースター礼拝は午前7時と10時の2回に分けてささげられます。主の復活の勝利を共に祝いましょう。
  • 教会の聖餐式を行います。聖餐は主が十字架にかかられる前に、最期の晩餐時に十字架の贖いをおぼえるために守りなさいと教えられ、2000年間に渡って守られてきました。
  • 4月4日は日曜楽校の進級と学校の卒業、入学のお祝いをします。このような状況ですが特にインマヌエルの主が感謝です。
  • 2021年4月4日、復活祭礼拝のあと、終活セミナーを開催いたします。昼食はお弁当を注文する予定です。必要な方は極兄へ「予約」をお願いします。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

3月28日(日)7:00早朝礼拝
 10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
  教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
3月30日(火)15:00聖書の学び
3月31日(水)20:00聖書の学びと祈り会
4月3日(土)11:00聖書の学び

 

メッセージ

「目には目で、歯には歯で、いのちにはいのちをもって」

出エジプト記21章23〜25節

民のリーダーの大切な役割に「さばき」があります。神も「さばき主」と示されています。モーセも240万人の民の訴えをさばいていました。

裁判と言えば公正が求められます。訴えの利害が一致しないのです。我が国にも司法制度がありますが、弁護士はバッチをつけています。その図柄は「ひまわりとはかり」です。ひまわりは太陽を表し、はかりは公正を意味します。

出エジプト記21章には「さばきと償い」が示されています。例えば

出エジプト記21章20節「自分の奴隷を打って死なせた場合、自分のいのちをもって償う」

出エジプト記21章28節「牛が人を突いて死なせた場合、その牛を殺さなければならない」

初めの人アダムが罪を犯した時、罪が死をもたらし、霊的いのちは神と断絶し、土の器である身体は土に帰る、を招きます。しかし、愛される神は、創世記3章21節で「皮の衣」を着せて、裸の恥を被い守られます。

しかし、この神の恵みも人は受け入れず「カイン」は殺人を犯します。この時カインは「私の咎は大きすぎて、負いきれません」(創世記4章13節)と告白。「いのちの代価」はあまりにも高価で尊く、かけがえのないものであり、自分では取り返しがつかないことを吐露するのです。それだけでなく身内に復讐されるだろうと考え怯えます。神はアダムの時「皮衣」を与えたように、カインにも「しるし」を与えます。正に恵みとは何かを教えています。それは復讐を禁止したものです。

聖書ではカインの次に「レメク」が殺人者として記されています。復讐の対価が倍加していくのです。レメクには「カインに7倍の復讐があるなら、レメクには77倍・・・」半沢直樹の「倍返し」世界観です。

現在、ある国会議員の裁判中です。法廷で被告は、自分がやったことは「万死に価する」と告白し、その目的を「妻を当選させたかった」「仲間が欲しかった」と弁明しています。

神は、対価(贖い)を律法で定められました。「目には目で、歯には歯で・・・いのちにはいのちをもって」

ノアの時代、「すべての人は悪に傾いた」ゆえに、神のさばきを招きます。方舟から出てきたノアとその家族に対価を示します。それは「いのちにはいのちをもって」(創世記9章5〜7節)償わなければならない。聖書のさばきの原則は「罪の報酬は死です」(ローマ人への手紙6章23節)罪には死をもって、またいのちにはいのちをもって償わなければならないのです。

しかしこれは不可能です。詩篇49篇5〜9節には

「なぜ、私はわざわいの日々(死)に、恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者(サタン)の悪意が私を取り囲む時に、彼らは、自分の財産に依り頼み豊かな富を誇っている。兄弟さえも、人は購い出す事ができない。自分の身代金を神に払うことはできない。たましい(いのち)の贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない。人は、いつまで生きられるのだろうか。墓を見ないでいられるだろうか」

主は、マタイの福音書5章28節で「右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい」と仰せられました。私はそんなことはできません。罪の性質で怒りが込み上げてくると思います。なぜ「いのちにはいのちをもって」足りないのです。例えば交通事故で愛する者を失ったら、どれだけお金が積まれても、とうてい足りないのです。おそらく被害者の家族は「お金はいらない、本人を返しなさい」と。イエスの十字架の目的はテモテの手紙第一2章6節「キリストは、すべての人の贖いの代価としてご自分を与えてくださいました」神の御子のいのちが犠牲となられました。コリント人への手紙第二5章20節では、神は和解を懇願しておられるのです。