これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。
ヨハネによる福音書16章33節
敬拝
- 黙想 静かに礼拝に備えます
- 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
- 祈り
- 勧め 藤野極兄
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 本日の聖書からのメッセージは早朝礼拝:牧師、10時礼拝:藤野極兄です。
- 聖書の学びが再開されています。
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
今週の予定
1月17日(日) | 7:00 | 早朝礼拝 |
10:00 | 一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。 | |
教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。 | ||
14:00 | 豊見城礼拝 | |
1月19日(火) | 15:00 | 聖書の学び |
1月20日(水) | 20:00 | 聖書の学びと祈り会(使徒の働き) |
1月23日(土) | 11:00 | 聖書の学び(マタイによる福音書) |
メッセージ
「長老ヨハネからガイオへの愛の手紙」
ヨハネの手紙第三
使徒ヨハネは使徒たちの中でも最も若く、長く奉仕できました。第三の手紙も執筆時期は70〜90AD位だと言われています。当時の状況は政治的にはローマ帝国時代、帝国の中では街道が発達し、船旅も盛んに行われていました。でも今の時代とは違って旅は過酷なものでした。またヨハネもパウロも多くの手紙を各教会、また個人宛に送っています。新約聖書もほとんどは「手紙」として書かれたものでした。
そのような中で主の宣教命令(マタイによる福音書28章)は想定外の方法で履行されていきます。初代のエルサレム教会は多くのクリスチャンが生まれ、一日何千人というリバイバルが起こりました。それはユダヤ教にとっては脅威となり、迫害が日に日に増していきました。帝国も「神の国の王であるイエス」を宣べ伝えている教会を敵とみなし、政治的、宗教的迫害が増していき、この時代を教会の「暗黒時代」と評されています。
クリスチャンたちへの迫害はあまりにも酷く、やがてエルサレム教会は経済的にも困窮し、パウロがサポートを募って届けています。そのためにクリスチャンたちはエルサレムから地方へと離散していったのです。結果、主の宣教命令である使徒の働き1章8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」が成就していくのです。
宛先の「ガイオ」は聖書に3回、あるいは3人登場します。それは同一人物なのか、3人のガイオがいたのかは分からないのですが。
・マケドニアのガイオ:使徒の働き19章29節
・デルベのガイオ:使徒の働き20章4節
・コリントのガイオ:コリント人への手紙第一1章14節、ローマ人への手紙16章23節
彼は教会の集まりのための大家さんで、いくつかの家を所有していたと言われています。
ヨハネはガイオを「愛する者よ」と4度記しています。それは「主にあって愛する」という意味で新約にはよく使われています。
「幸いを得」というのは、成功、繁栄を指しています。
「健康であるように」というのは、ガイオが病気であったという意味ではなく、健康が支えられるようにとの配慮です。もしガイオが病弱なら、ヨハネは癒されるように祈ったでしょう。
この「健康であるように」というのは、普段何気なく使われる挨拶のようなものです。私たちも「元気でね」と別れの挨拶に使います。しかし、それには状況によって大切な意味を込めています。イスラエルでは挨拶に「シャローム」と言いますが、「平安があるように」は、戦争やテロが日常に起こる地域では、再び会えないかもしれない切実な「祈り」が込められています。
振り返って、現在の世界は見えないウイルスの危機にさらされています。「健康」は切実な願いでもあります。ヨハネがガイオに送った「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように。あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」霊的にすべて救われ、その他の部分でも神の恵みによる祝福が与えられ、そして身体的な健康が与えられるようにとの大切な挨拶です。
手紙の目的は「よそから来た人への配慮」についてです。
「よそから来た人」というのは、他の個所では「旅人や寄留者」という表現をしていますが、それは迫害にあって、着の身着のままで逃げてきたクリスチャンです。彼らはガイオの家(教会の家)にも来ました。教会は彼らをかくまい世話をしたのですが、これを快く思わない人もいたようです。エルサレム教会に属していた聖徒たちですから多くはイスラエル人です。「異邦人から何も受けずに出て行った」というのは、彼らは何かを求めて立ち寄ったのではなく、ひと時の安息を求めて立ち寄ったのです。
ヨハネはこのような旅人を「受け入れるべきです」と勧めていますが、ガイオもこの奉仕に熱心でした。もちろん難民を受け入れることはリスクを伴いました。ですからリスクを負いたくないと考える人もいても不思議ではありません。ただ、主の宣教命令は想定外の方法で実現していきます。さて、現在の状況、何を学ぶことができるでしょうか。