2022年1月16日

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストの御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

ローマ人への手紙6章4節

敬拝

  • 賛美 主のご栄光をほめたたえます
  • 祈り
  • 勧め 「信仰に生きる」へブル人への手紙11章1節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 2022年1月9日から1月31日まで、沖縄県の「まん延防止等重点措置」が発令されています。教会でも、感染防止対策のために礼拝を配信へ切り替えます。配信がご覧いただけない方は、感染対策をしてお集まりください。
  • 早朝礼拝は引き続き行いますが、「緊急事態宣言」が発令されたら、休止にする可能性があります。その際はできるだけご連絡いたしますが、連絡が行き届かない可能性もありますので、本ホームページをチェックしてください。
  • 感染あるいは濃厚接触者に指定された場合、生活用品や食料品などの買い出しが不可能となり困窮する可能性があります。その際は、牧師までご連絡ください。教会としてできるだけ手配したいと考えています。
  • 1月のビジョン会は中止します。

ディボーションノート「水路のそば」

1月17日(月)イザヤ書9章1〜21節
1月18日(火)イザヤ書10章1〜34節
1月19日(水)イザヤ書11章1〜16節
1月20日(木)イザヤ書12章1〜6節
1月21日(金)イザヤ書13章1〜22節
1月22日(土)イザヤ書14章1〜32節
1月23日(日)詩篇91篇1〜16節

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

信仰に生きる

へブル人への手紙11章1節

1.人生は旅 詩篇119篇17~20節

現在、わが国はコロナ禍の第六波と言われています。この状況で人は、日常、仕事以外に何をしているのかが見えてきました。一つは食事で、もう一つは旅行です。いかに私たちが旅行好きかがわかります。かくいう私もそうですが、若い時にシベリア鉄道にあこがれたことがありました。

旅行というのは、場所の移動ですが、聖書は、時間の移動(経過)という旅をしていると記されています。この旅は、意識しなくても、規則正しく進行しています。

この時間の旅は、出発点が創造主にあり、目的地も創造主のみもとですが、イスラエルの王「ソロモン」は「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道者の書12章7節)と証しています。

私という霊的いのちの存在は、体という住まいの中にいますが、やがてこの幕屋も脱いで「裸」で「かしこ(御国)」に帰るのです。ヨブは、社会的にも肉体的にも過度なわざわいにあった時「私は裸で母の胎から出てきた。また裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1章21節)と信仰の告白をしています。

私が最初に飛行機に乗ったのは、九州の博多から伊丹航路でしたが、旅の移動に用いtた航空機から降りて、我が家に帰りました。同じように、移動の手段(生活の手段)で用いた「体」は、やがて脱ぎ、「我が家」に帰ります。ただ、アダムの罪を継承した私は、存在の意味も、生きる目的も、どこに行くのかも知らない「寄留者」でした。それは、失望、絶望の暗闇のようでした。

2.人生は出会いで決まる

このように暗中模索で、四面楚歌の状態にありました。その当時、それは罪の刈り取りであることを全く知らないし、意識もしていませんでした。イエスに出会うまでの以前の旅は、望みのない旅でしたが、暗闇に光が差すように、目が開かれました。新しい旅は、神の国という希望に満たされた旅にされたのです。それは、私のルーツの基、それも人格をもたれたいのちの神です。愛による救い主です。

辛い、苦しい旅の原因は、「父」まことの創造主を知らないことでした。罪とは「神を信じないこと」だからです。神は、父を知るために「御子」を遣わされ、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげます。」(マタイによる福音書11章28節)と招いておられるのです。

3.それは主にある「共に紀行」です

新しい旅の鍵の句は「共に」です。マタイの続きは、「わたしは心やさしく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいにやすらぎが来ます。」(マタイによる福音書11章29節)。イエスのくびきを負うとは、「共に」であり、イエスから学ぶとは、「みことばに生きる」ことです。みことばの力は、私たちをふるい性質から解放し、自由をもたらします。

このような聖句は、至るところにあります。

例えば、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものは・・・」(ヨハネによる福音書15章1節)と、ぶどうの木の枝に例えられています。詩篇23篇では、神との関係を「羊飼いと羊」に例え、この旅は、主と共なる旅です。「あなたが白髪になっても、わたしは背負う・・・」(イザヤ書46章4節)