2020年12月27日

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙8章28節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「苦難の中にある希望」ローマ人への手紙8章18〜25節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 2021年元旦礼拝は1日(金)午前10時からです。
  • 本日は礼拝後に会堂清掃とクリスマスの飾り付け撤去を行います。
  • 名護集会は退去いたしました。今までの祈援、心から感謝いたします。また豊見城集会は現在休止していますが、また違う形で集うことができればと願っています。
  • コロナウイルスの感染が拡大しています。協会での集まりもかなり困難になってきています。ぜひマスク、手洗いなどを続けていただき、またグループでの会食は控え、礼拝の参加も体調不良等ありましたら、思い切って自宅待機してください。礼拝後も挨拶程度でそのまま帰宅してくだされば幸いです。
  • 「Cancer gift」という書籍を販売しています。北海道の教会に集っている癌を患ったメンバーの証です。300円で販売しています。
  • 聖書の学びは明日2020年12月28日から2021年1月11日までお休みします。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

12月27日(日)10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
  教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。

 

メッセージ

「苦難の中にある希望」

ローマ人への手紙8章18〜25

今日は2020年最後の礼拝日となりました。思い返せば、年の初めから新しいウィルスの感染、拡散と続き、その課題を来年に持ち越そうとしています。

聖書の預言によると、まさに「終わりの時」と言えます。

今日はローマ人への手紙8章からのメッセージです。本章には「苦難」「恐怖」ということばがでてきます。パウロは「今の時の苦難は・・・」という書き出しをしていますが、パウロの時代のクリスチャンたちはどのような苦難があったでしょうか。当時は政治的宗教的な迫害があり、エルサレム教会の存続が危うくなり、信徒たちはアンテオケや周辺に離散していきました。パウロ自身も何度も命が危うくなったり、破船、強盗、にせ兄弟の難があり・・・やがて捕らえられてローマに護送されます。

パウロにとっての「今の時の苦難」がありました。しかし、苦難はパウロの時代だけでなく、教会2000年の中でも繰り返されてきました。戦争、紛争、飢饉、地震、そして迫害、ナチスに追われた「トラップ一家」「アンネの家族」のように休まる時がなかったかもしれません。

振り返って、今年は「ウイルス」が苦難と恐怖を与えました。私は今まで、ウイルスと細菌の違いさえ知りませんでしたが、その違いをネットで学び、この肉眼で見えない極小のウイルスが人に感染し健康を奪い、時には死をもたらすことがわかってきました。今の時点では、どこから、いつ発生したのかもわかっていません。でも瞬く間に世界に拡散して行っています。それも変異しながらです。

しかし、元々ウイルスは世界に存在していたのでしょう。ローマ人への手紙8章20節で「被造物が虚無に服したのは・・・」とあります。これは私の思い違いかもしれませんが、旧約の「汚れた動物」は、人間の罪の結果があらわれウイルスによって汚されているので、食べてはいけない、触れてもいけない、と警告されたのかもしれません。であるなら、ウイルスはウイルスならではの本来の存在意義があったのかもしれません。例えば、動物が死んだらその身体は他の動物の食料になったり、太陽の熱で乾いたり、細菌によって食べられていったり・・・しながら死体が土の上にいつまでも散乱しないようにとの配慮が働いているのかもしれません。それは「被造物が虚無に服した」というのは、被造物が「本来の目的、意義から外れた」ことを意味するからです。

アダムが「一つの果物」の実と引き換えに、神のいのちを失うという結果をもたらしたように、人間は、本来神を信じ、神との交わりを通して共に祝福されるという目的で創造されました。罪を犯すことは虚無に服してしまった結果です。また被造物を正しく管理し、神に栄光を表すという大切な仕事が与えられていたのです。本来の目的からの逸脱、虚無に服したことによって他の被造物も虚無に服し、本来の創造の目的から逸脱してしまったのです。聖書では「罪」というのは「的外れ」と言いますが、まさに神の目的から外れてしまった結果を招いているのかもしれません。

しかし、これらの一連の出来事、呪いを受けることは本来の計画ではありません。これらの苦難を通して、人は自分の能力で救われることはできない、永遠のいのちを獲得することも、考え得るパラダイスを作り上げることもできないことを示し、特に「体の贖い」は神の恵みの賜物であることを知らしめているのです。今「うめいている苦難」も苦難のための苦難ではなく、いつまでも続く苦難でもなく、「産みの苦しみ」であること、産みの苦しみは、新しいいのちを生み出す苦しみであり、それは霊的に贖われている神の子供が、身体も贖われることを待ち望んでいる新天新地のための産みの苦しみである福音です。

「この朽ちるべきものが、朽ちないものを着て、この死ぬべきものが、死なないものを着るとき・・・」(コリント人への手紙第一15章54節)