2020年12月6日

私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。

詩篇121篇1〜2節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「過ぎ越しの子羊イエス」ヨハネによる福音書13章1〜8節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 2020年12月20日(日) 10時 クリスマス礼拝
  • 2020年12月24日(木) 19時 燭火礼拝
  • 2020年12月27日(日) 礼拝後 大掃除
  • 2021年元旦礼拝は1日(金)午前10時からです。
  • クリスマスの飾り付けのご奉仕感謝いたします。主のご降誕をお祝いするために部屋を飾ることは感謝です。
  • これからの予定のためにお祈りください。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

12月6日(日)10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
  教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
12月8日(火)15:00聖書の学び
12月9日(水)20:00聖書の学びと祈りの時
12月12日(土)11:00聖書の学び

 

メッセージ

「過ぎ越しの子羊イエス」

ヨハネによる福音書13章1〜8

イエスが人となられた目的は、神の国の実現です。そのために罪の中にいる私たちを救うためでもあったのです。過ぎ越しは旧約聖書のイスラエルの民がエジプトから解放される出来事から始まり、これを覚えるための「祭」として守られました。

奴隷状態から解放されるための契約のしるしが「鴨居に塗られた血」でした。そのために家族に一匹子羊がほふられたのです。

イエスは、罪の束縛からの解放のために、ほふられる子羊として来られ、いよいよその成就のために十字架を目指すことになりました。「自分の時が来た」と仰せられました。過ぎ越しは、「エジプトからカナンへ」「世から約束の地へ」「奴隷から自由へ」「絶望から希望へ」「闇から光へ」「を示しています。

祭りとして守られてきた型が、本当の過ぎ越しとして成就するのです。

主が十字架で死なれ、埋葬され、復活し、そして昇天される。それは今まで主に従ってきた弟子たちにとって哀しい出来事が始まろうとしていました。今までは何があっても主がともにおられました。現実の主についていれば平安でした。しかし、今主が「父のもとに帰られること」を知りました。不安の中にいることを知っておられる主が弟子たちに、長いみことばを教えます。ヨハネの福音書14〜16章にわたるメッセージです。

・弟子たちのうちに主を裏切る者がいること

・弟子たちの足を洗われること

・互いに愛し合うこと

・父のみもとに帰る目的は、弟子たちの場所を備えるためであること

・その場所に行くための道はイエスご自身であること

・イエスを見た者は、父なる神を見たこと

・神を求める者の助けに聖霊が与えられること

・それは旧約にはなかった、信徒に「内住」されること

・イエスはまことのぶどうの木で、父なる神は農夫であること

・聖くなければ神を見ることはできないが、すでにみことばによって聖いこと

・人がイエスを選んだのではなく、神が選んでくださったこと

・世からは憎まれることもあること

・昇天されるイエスは、再び帰って来られること

・求める者には与えられる約束

・そして最後に、これらのことを話したのは「あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあって苦難はあります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネによる福音書16章33節)

以上の中で、「洗足」について取り上げます。イエスは愛しておられることを表すために、弟子たちの足を洗い始めました。「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って」それはご自分がしもべのかたちを取られることを意味します。上着はカバー、守りを意味します。一通り弟子たちが終わってペテロの番になりました。ペテロは困惑しました。洗足はしもべの仕事です。「私の足を洗わないでください」ペテロはイエスがどれほど聖い方であるかをよく知っていました。漁師の時の大漁がその力を信じるきっかけになったのです。拒んだペテロに、もし拒んだら「関係」がなくなると仰せられました。カナの婚礼でイエスが母マリヤに言った言葉に似ています。確かに主がなさっておられることは今はわからないが後で必ずわかるようになると。

イエスは人に仕えるために過ぎ越しの子羊としてほふられる、私たちの罪の負債を一身に負われることとなるのです。

イザヤはこのことをイザヤ書53章4〜6,10節で預言しています。

罪のために神の栄光を受けることから遠く離れていた私たちと神のいのちの関係が結ばれるのです。主は足は世で汚れるが、全身みことばによって聖いと。