2020年11月22日

ですから、わたしたちのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

マタイによる福音書7章24節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「空っぽの墓」ヨハネによる福音書20章1〜10節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 2020年のクリスマス礼拝は12月20日を予定しています。コロナ禍の中でも礼拝が守られ、喜びの時を持つことができますように。
  • 2020年11月29日(日)礼拝後、クリスマスの飾り付けを行います。ぜひご参加ください。イエスの降誕をお祝いできることは幸いです。
  • 今週水曜日(2020年11月25日)の聖書の学び、祈り会はお休みです。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

11月22日(日)10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
  教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
11月24日(火)15:00聖書の学び
11月25日(水)中止
11月28日(土)11:00聖書の学び

 

メッセージ

「空っぽの墓」

ヨハネによる福音書20章1〜10

2020年もやがて終わろうとしています。今年も様々な出来事がありましたが、新型のウイルスの感染の年と言えるでしょう。ウイルスの影響は今もありますが、その正体がよくわからなかったからです。クルーズ船の感染は大きなショックとなりましたが、まだ遠くの出来事としていました。しかし、芸能人の方が亡くなられたり、死をもたらすことがわかってきました。

その後、意志を持たないウイルスが人に挑戦するように世界中に拡大していきました。今もその渦中です。かくいう私も日々戦々恐々としています。見えなくて、極小のウイルスが内蔵を侵し、生命に関わることでどう対処していいのか。15秒間の手洗い、マスク、三密を避けるなどの公的機関の勧めを守っています。これもどのくらい守ればいいのか、もちろん徹底することが良いとわかりますが、それでも「私は守っている」と胸を張って言えない自分がいます。

◆ただ、このことが私たちに教訓をもたらしています。それは「救い主」の必要です。

1、聖書によりますと、人の死は病気によるのではなく罪が原因です。人は罪を犯したので死ぬと記されています。

2、人間の能力には限界があるということです。医学が発達し、科学は日進月歩です。数年前まで考えられなかったことが現実に起こっています。やがて人は様々な問題、課題を克服して長寿になるかもしれません。しかし、それは死を回避することではありません。

3、病は体の死をもたらしますが、体の死はすべての終わりを意味するのではなく、人は「神から来て神に帰る」「チリはもとあった地に還り、霊はこれをくださった神に帰る」私たちはやがて神のみもとに引っ越すのです。

4、人はその生涯の中で最も大切な事は「神に会う」準備です。それは恵みによって与えられている救い主を信仰によって受け取る事です。

◆どうやってイエスに出会い、何を信じるのか。ヨハネによる福音書20章には、三つの「見る」が記されています。

1、ヨハネによる福音書20章1節「見た」ギリシャ語で「ブレポー」といいます。

日曜日の朝早く、マグダラのマリヤたちはイエスの遺体に香油を塗るために墓にきます。墓についた時、墓を塞いでいた石が取り除けられているのを見たのです。

これは状況を見たのです。とっさに彼らは「誰かが主を取っていった」と思いました。これは、視覚で見たという事で、この状況は、ローマ兵か、大祭司たちか、あるいは墓泥棒かが遺体を移動したと考えました。現在、人は世界を見て驚嘆し、自然の素晴らしさを見ました。まだ創造主は見えていません。

2、ヨハネによる福音書20章5、6節「見た(観た)」ギリシャ語で「ヤオレオー」といいます。

これはヨハネとペテロが墓をのぞき込んでいる様子です。彼は墓の中に亜麻布が置いてあるのを見ました。これは泥棒説を否定します。亜麻布は高価な衣ですから泥棒なら最初に盗むのです。ですから泥棒ではないことを見ました。小学生が朝顔の種を植えて、発芽、成長、開花・・・などを観察する「観る」です。肉眼で見て観察します。

3、ヨハネによる福音書20章8説「見る」はギリシャ語で「レイト」といいます。

意味は「診る」としたほうが良いでしょう。レイトというのは医者が患者を診察するようなもので、体の上からトントンと叩いたり、ベッドに寝かせて膝を曲げてお腹を押さえたりします。手首を押さえて脈を取りますが、これは、血管が動いているのをみているのではなく、血流の流れを診ているのです。彼らはまだ復活の預言を理解していなかった。しかし、ヨハネは「診て、信じた」のです。何を信じたのか。それは日頃何回も何回もイエスが仰せられたことです。十字架の意味を知り、よみがえりを信じたのです。ウイルスは人に脅威となっています。この事を通して自分のいのちの基礎をどこに置いているかを考える機会となりました。「空っぽの墓」は死で終わらない新しい世界の存在を証しています。