2020年11月8日

幸いなことよ。全き道を行く人々。主のみおしえに歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。

詩篇119篇1〜2節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「みことばから始まる祝福の道」エゼキエル書2章1〜3節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 本日は礼拝後11月ビジョン会(事務集会)があります。
  • 2020年のクリスマス礼拝は12月20日を予定しています。コロナ禍の中でも礼拝が守られ、喜びの時を持つことができますように。
  • 聖書の学びが火曜、水曜、土曜にあります。状況が許される方はぜひどうぞ。
  • 2020年11月29日(日)礼拝後、クリスマスの飾り付けを行います。ぜひご参加ください。イエスの降誕をお祝いできることは幸いです。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

11月8日(日)10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
  教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
11月10日(火)15:00聖書の学び
11月11日(水)20:00聖書の学び、祈りの時
11月14日(土)11:00聖書の学び

 

メッセージ

「みことばから始まる祝福の道」

エゼキエル書2章1〜3節

神のご用意された回復の過程についてみことばから知恵を得たいと思います。人はアダム以来、神のいのちの関係が断絶しています。しかし神はそれを良しとせず、再び人が神のいのちに生きる者にされようと計画されました。聖書の書かれた目的もそのためです。

神は罪を犯したアダムに「アダムよ。あたなはどこにいるのか」と交わりを求めて来られました。1匹の羊がいなくなった時、99匹を置いて探しに来られる羊飼いにも例えられています。主イエスがこの世に来られた目的も「人の子は、失われた者を探して救うために来たのです」(ルカの福音書19章10節)と仰せられました。

今日は、その過程をエゼキエル書から学びたいと思います。エゼキエルという預言者は600BC頃バビロンへ捕囚の民として行きました。国は滅ぼされ、多くの民は奴隷として連行され、礼拝をささげることもままならない過酷な状況に置かれている時、エゼキエルに、神のみことばの啓示が与えられるのです。エゼキエルは「人間の姿に似たもの」(エゼキエル書1章26節)の幻を見ます。彼は「その方」と呼び「ひれ伏して」(エゼキエル書1章31節)礼拝しています。ということは「その方」は受肉前の顕現イエス・キリストです。このイエス様が幻のうちに現れたのです。

「その方は私に言われた」(エゼキエル書2章1節)神のメッセージが「人の子」とされたエゼキエルに与えられたのです。

「人の子よ。自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」と。

①神は語られる。(エゼキエル書2章1節)

神が人との関係の回復のために、みことばを用いられます。みことばが語られます。「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け。」(ルカの福音書9章35節)信仰はみことばを聞くことから始まります。

②霊がわたしのうちに入り(エゼキエル書2章2節)

ヨハネの福音書9章7節での「盲人の開眼」の例えを用いることができます。イエスが、生まれつきの盲人に、光を見たことがないのに「わたしは世の光です」と宣言され、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」とみことばが与えられ「彼は行って洗った」とイエスのみことばを聞いて、従ったことが記されています。その時「見えるようになるから」と約束されたわけでもなく、ただ「聞いてその通りにした」ことで開眼が起こっています。みことばを受け入れた時、彼のうちに御霊が働かれたのです。

③立たせた(エゼキエル書2章2節)

エゼキエルには最初に「自分の足で立て」と命じられたのですが、この例えは使徒の働き3章6〜7節の「美しの門前の出来事」に見ることができます。ペテロとヨハネは施しを求める人に言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」二人は、みことばによって「イエスの御名」の権威を語られます。イエスの名はあなたを立ち上がらせることができます。立ちなさい。歩きなさい。二人はそのままの人の「右手を取って、立たせた」とあります。彼は「自分の足で、自分のために立った」のです。

④遣わす(エゼキエル書2章3節)

神はエゼキエルを遣わすと命じられました。どこへ。それはイエスラエルの背信の民のところへです。

「遣わす」というのは、もともと世にいたのですが、今、神の所、神の側に移されたことを意味します。神はエゼキエルを用いられるのです。この例えは、マルコの福音書5章19節の「悪霊につかれた人の解放」の物語から見ることができます。解放された人は、彼は他の弟子たちのようにイエスのお供をしたいと願いました。しかしイエスはお許しにならず「あなたの家、あなたの家族の所に帰りなさい。そして、主があなたにどんな大きなことをして下さったか、どんなにあわれんで下さったかを知らせなさい。」次は家族のためにです。