2020年6月28日

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
ヘブル人への手紙11章6節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 報告
  • 祈り
  • 勧め 「信仰者の歩み」ヨハネによる福音書8章23〜24節
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 現在世界中がコロナ禍の中にあり、教会の年間計画イベントがそのままできなくなりつつあります。その中にあって10月の特別集会など少しでもできるようにと願っています。
  • 午前10時の中城礼拝は、午後から配信しています。先週は6名の方がインターネットで参加してくださいました。続けて用いられますように。
  • 聖書の学びは火曜日午後3時からと、水曜日午後8時から、土曜日午前11時からあります。マスクなどを用いながら進めています。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

6月28日(日)10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
6月30日(火)15:00聖書の学び
7月1日(水)20:00聖書の学び(黙示録)、祈りの時
7月4日(土)11:00聖書の学び(ローマ人への手紙)

メッセージ

「信仰者の歩み」ヨハネによる福音書8章23〜24節

信仰者は、「世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」(エペソ人への手紙2章2節)状況から救い出され「この方(イエス・キリスト)を受け入れ」信じ、「神の子どもとなる特権をお与えになった」方を主として歩む人生に入れられ、様々なことが大きく変化しました。仕える主人が変わることによって、人生の基礎も、目的も、生きる力も、指針も、価値観も変わり「神の家庭、国籍が天」になりました。その瞬間私たちの主は、モーセに現れた時の同じ名「わたしはある」と宣言されたのです。ですからイエスは弟子の質問「私たちに父を見せてください」と願ったとき「わたしを見た者は父を見た」と証言されました。だから聖書は創世記から黙示録まで「わたしについて証している」(ヨハネの福音書5章39節)のです。

その目的は、「永遠のいのち」を得ることです。そのためにイエスのもとに行き、信仰によって受け取るのです。では、何を信じるのかというと二つあります。それはヘブル人への手紙11章6節に記載されています。

1、創造主の存在

2、信じる者には報いがある

信仰というのは「つながり」です。家電を購入し、家のコンセントに差し込むと電気が流れ本来の役割をするように、信じることによって「神のいのち」が流れるのです。

永遠のいのちはイエスを救い主として信じる者に与えられる「報い」です。それはヨハネの福音書3章16節にも約束されている通りです。またそれは神の家族、子供の一人に加えられることにもなります。(ヨハネの福音書1章12節)戸籍の変更のようです。私は本来兵庫県に本籍がありました。でも今は沖縄県です。この瞬間沖縄に生きるように、神の家族として、ヨシュアの証のように「私と私の家族は主に仕える」状態にされました。神の家族のあり方は十戒を始めとする律法です。ヤコブは「信仰を行いで・・・」というのは、神の子供としての成長を言っています。十戒は出エジプト記20章に示されています。大変厳しく見えますが、それは詩篇119篇103節に蜜のように甘いと証しています。

第一戒 20章3節「ただ主だけ」

第二戒 20章4節「偉大な神」ー比べるものなし。他に探す必要もなし。

第三戒 20章7節「すばらしい名」ー最高の権威

第四戒 20章8節「安息日を覚えて聖とせよ」ー安息日は神の創造の働きを賛美する「いこいの日」です。日曜日の聖日は「主の復活」を記える礼拝の交わり、解放記念日です。

第五戒 20章12節「親を敬え」家族の結束こそ平安の秘訣です。

第六戒 20章13節「殺してはならない」人を差別したり、軽蔑したり、比較したりしなくてもいい。必要でない人はいないから。

第七戒 20章14節「姦淫してはならない」姦淫は人も自分も傷つき壊れる。

第八戒 20章15節「盗んではならない」ー生活の糧を得る方法は5つ。①働く ②福祉 ③物々交換 ④もらう ⑤祈る

第九戒 20章16節「偽りの証言をしてはならない」ー真実を語る。

第十戒 20章17節「隣人のものを欲しがるな」ー「私は私、あなたはあなたで良い」

十戒は厳しいようですが、実は大変神の愛に満ちた蜜のような規則です。これは私の独善ですが、私には孫がいます。孫は外で遊ぶのが大好きです。ある日道路の方に出て行こうとするので私は厳しく戒めました。「危ないから道路に一人で出ないように」。これは第一戒です。次に「ソファーでジャンプしないように」。そして「歯ブラシを咥えて遊ばないように」等々です。これで「三戒」になりましたが孫は多分不満です。でもそれは孫が大好きだからです。戒めは「愛されるための法則」でなく「愛されているゆえの規則」です。神の家族は戒めを守って家族に認められるのではなく、家族して生かされているためのものです。