すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。
ペテロの手紙第一2章17節
敬拝
- 黙想 静かに礼拝に備えます
- 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
- 祈り
- 勧め 「敷石(三つの裁判)」ヨハネによる福音書19章1〜13節
- 報告
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 本日は「母の日」です。お母さん、おめでとうございます。神様に用いられて産み育て、現在があること。変わらない配慮に感謝します。
- 本日10日の礼拝はお休みですが、10時からインターネットで配信しています。機材のある方はお聞きください。
- 来週5月17日から礼拝を再開したいと考えています。午前7時からの中城礼拝、そして10時からの礼拝になります。
- 沖縄では一週間ほど新型コロナウイルスの新たな感染者が発生していません。このまま続くことを願っていますが、もし今後感染者の増加が見込まれる場合は再度礼拝を中止にする可能性があることをご了承ください。
- まだまだ先が見えない中での礼拝再開となります。ぜひお身体をご自愛くださり、手洗い・マスク着用など、県の発表に従っていただければ幸いです。身体の弱さを覚えておられる方や、咳など風邪症状のある方は、自宅で自粛してくださいますようお願いします。この疫病騒動はしばらく続くと思います。このまま衛生面で気をつける習慣を身に付けたいと思います。
- 5月17日の礼拝が再開できましたら、聖書の学びも再開しようと考えています。
- 献金をされる方は振込ができます。
沖縄海邦銀行 普天間支店
店番:042
口座番号:653969
普通
名義:単立恵みバプテスト教会
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
今週の予定
すべて休止です。
メッセージ
「敷石(三つの裁判)」ヨハネによる福音書19章1〜13節
聖書に「さばき」という言葉が記されていますが、それは「裁判」のことです。世にも裁判制度がありますが、士師記の「士師」も裁判官のことです。それは、個人的なことから社会的なことまで表されますが、白黒つける、有罪か無罪かの判定をします。時代劇にも遠山金四郎や大岡越前守は奉行という裁判官になって、被告を「お白砂」に座らせて、裁判が行われ判決を言い渡しています。
主イエスも裁判を受けられています。この世的には、二つの裁判です。
①宗教的な裁判です。裁判長は「大祭司カヤパ」、罪状は「律法に違反し、自分を神と称した不敬罪」ということになるでしょう。確かにイエスが神でなければ彼らの訴状は正しいかもしれません。しかし、イエスは旧約聖書から預言されている救い主(ヘブル語でメシヤ、ギリシャ語でキリスト)です。カヤパたちユダヤ教は、いわゆる宗教化してしまい、約束されていた自分たちの救い主を受け入れる体制が欠如していて、自分の権威や既得利益を守り、裁判が伊勢うに移っていくことを妬み、なきものにしようと企んだ結果です。現代人にも言えるかもしれません。自分の信じている宗教が正しいと、頭からイエスを否定し、否定するための知識だけを集めようとしているか、無関心を決めているのです。
②政治的な裁判です。当時のイスラエルはローマ帝国の植民地化していました。ですからイエスに正式な裁判をすることができず、ステパノの殉教時のように私刑的にするしか方法がありません。しかし裁判をするように大祭司からイエスを託されても、ピラトにはイエスを裁判し有罪にするには材料が乏しく、ローマに対する「何の罪も見出せなかった」。とりあえず鞭打ちにし、大祭司たちの気が収まるようにとしたのですが、彼らの主張は「死刑ありき」ですから、満足するはずがなかったのです。そこでピラトはイエスに「私はあなたを死刑にすることができるのだよ」(ヨハネの福音書19章10節)と脅しています。イエスは「上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権威もない」と応えられました。この「上から」はピラトにとってはローマ皇帝ですが、イエスは全能なる神を示しておられました。
③三つ目の裁判・上からの権威による。三つ目の裁判は霊的なさばきです。それは「上から」とは全能の父なる神であり、被告は「罪人である私」であり、イエスは私の身代わりにさばきを受けていることになります。罪のないイエスだからこそ身代わりになられるのであって、私の罪状は「神を神としない」的外れな罪です。イエスは「わたしはあなたに引き渡した者にもっと大きな罪がある」と仰せられましたが、それは大祭司でもなく、裏切ったイスカリオテのユダのことでもなく、実は「私、藤野」です。ヘブル書9章27節には「人は、一度死ぬことと、死後にさばきが定まっているように」とありますが、私は2000年前にイエスにあって有罪判決を受け、死んだのです。これが身代わりの十字架であり、ヨハネによる福音書5章24節に「神を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく・・・」と記されています。
私たちは歴史という時間の中で生活していますが、創造主は永遠なる方で、過去や未来のような時間の経過を超えておられる方です。ですから、神にとってはいつも「今」です。やがて私たちも時間を超えた永遠の神の国に凱旋します。