イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
ヨハネによる福音書11章25節
敬拝
- 黙想 静かに礼拝に備えます
- 祈り
- 勧め 「救い主イエス」ヨハネによる福音書3章12〜17節
- 報告
- 祝祷
教会からの報告・案内
- イエス・キリストの復活を心から賛美しほめたたえます。
- 本日と2020年4月19日の礼拝を休止します。2020年4月20日以降については状況を見ながら決めたいと思います。
- 新型コロナウイルスの感染拡大が続いていますが、できるだけ早く過ぎ去り、集まることができますようにお祈りします。
今週の予定
全て休止です。
メッセージ
「救い主イエス」ヨハネによる福音書3章12〜17節
今日はイエス・キリストの復活記念の日です。それは降誕祭と同様、キリスト者にとっては大切な日です。その集まりができないことは大きな悲しみです。ルカ24章1節には、「週の初めの日の明け方」とあるように、教会が日曜日に礼拝するのはイエスの復活を記念し証することによります。姉妹たちはイエスが復活されたことも知らずに、イスラエルの習慣に従って遺体に香料を塗るために墓に来ました。イエスの復活を信じていたわけではなかったようです。しかし、墓はローマの番兵が立ちはだかり、姉妹で動かすことのできない石の大きさ、またローマ皇帝の「印」で封じられていました。それでも姉妹たちは墓に来たのです。香料を準備し夜が明けるのを待ちわびたように「明け方」墓についたのです。
墓に着くと、すでに墓を塞いでいた石は脇に転がされ、番兵もいないので、墓の中にそのまま入って行きました。イスラエルの墓は沖縄の墓とよく似ています。イスラエルに行った時、一人の兄弟が昔の墓を見て、「これなら沖縄にもあるよね」と言ったように、よく似ています。墓の中は3坪位の広さがあり、中は二つに区切られています。墓の中にイエスのからだはなく、姉妹たちが途方にくれていると、御使が二人、近くに来ました。その御使たちが姉妹たちに「あなたがたはどうして生きている方を死人の中に捜すのですか」と問いかけられました。姉妹たちはよみがえられたイエスに出会うために来たのではなく、死んで遺体となったイエスのもとに来たのです。沖縄でも、清明の季節です。この時期には墓に行き食事をしたりします。おそらくすべての人は、亡くなった先祖たちに会うために行くのです。そうです。死人の中にいる先祖たちにです。姉妹たちもそうです。死んでしまったイエスのもとにきたのです。
しかし、御使は「どうして生きている方を死人の中に捜すのか」と問われ、イエスは「生きておられる」いのちの中に、いや、いのちそのものの方であるイエスを示されたのです。「ここにはおられません」死人の中にはいない。「よみがえられた」のです、と。
このことはキリスト者にとっては大切な真理です。世界中にはたくさんのキリスト者がいます。クリスチャンにとって、イエスのよみがえりは大変大切です。それは、信じる者が、死で終わるのではなく、肉体の死を経て復活のからだによみがえることの初穂となられたのですから。もしキリストがよみがえられなかったら信じていることは空しく実のないものになってしまいます。ある方は私にこう言いました。私はキリストの十字架の死を信じていますが、どうしても死んだ人がよみがえられたことは信じられないのです。これでもいいですか。信じられないのは理解しようとして頑張っているのでしょうが、復活は知識的に理解することではなく、聖書のことばを神メッセージとしてそのまま受け入れ、信じることです。イエスはこの時が来るまで、何度も何度もご自身の復活について預言されました。ですから突然前触れもなく起こったことではありません。旧約聖書にはキリストの降誕がたくさん預言されていますが、同じように復活も預言されています。それでも実際に起こったとき弟子たちでさえ戸惑っています。
教会が2000年間も絶えることなく続けてこられたのは、実にイエスは身代わりに十字架に架かられただけでなく、三日目によみがえられた事実がるからではないでしょうか。聖霊が与えられたのも「イエスのよみがえりの証をする」ためと使徒は示しています。初代教会の宣教テーマです。
今回のコロナ騒動は、人には死があること、それは万民に共通であることを示しています。聖書でいう罪も「すべての人」に及び、すごい感染力があり、だれも逃れることができないことを示しています。ヘブル書10章25節では、一緒に集まることをやめたりしないで、「かの日」が近づいているのをみてますます集まりましょうと。かの日とは「イエスにお会いする日」の事です。