主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。あなたの真理に私を導き、教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。
詩篇25篇4~5節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「民を導かれる主」ヨシュア記1章1~9節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 本日2022年3月27日(日)午後1時から、ビデオ「サン・オブ・ゴッド」を上映します。
- 本日2022年3月27日(日)の早朝礼拝は、ミッキー兄がみことばを取り次いでくださいます。
- ウクライナからカナンに帰還するイスラエルの民のためのサポート献金を受け付けています。彼らが安全に出国し、イスラエルでの生活が支えられるように。
- 2022年4月10日(日)に、イースター記念バプテスマ式を計画しています。主イエスを救い主として信じ受け入れられた方は受浸してください。
- 来週2022年4月3日(日)に、教会楽校進級式を行います。
ディボーションノート「水路のそば」
3月28日(月) | ガラテヤ書3章1〜29節 |
3月29日(火) | ガラテヤ書4章1〜31節 |
3月30日(水) | ガラテヤ書5章1〜26節 |
3月31日(木) | ガラテヤ書6章1〜18節 |
4月1日(金) | エペソ書1章1〜23節 |
4月2日(土) | エペソ書2章1〜22節 |
4月3日(日) | 詩篇101篇1〜8節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
民を導かれる神
ヨシュア記1章1~9節
BC1446、エジプトにおいて、奴隷状態が400年以上続いていました。民は、この状態からの解放を神に求め、神は導き手モーセを起こされ、約束の地カナンを目指します。
イスラエルの民にとって、今まで経験しなかった事柄、また道を導かれて進みます。約1年経った頃、「バランの荒野」に達し、これから向かうカナンの地を偵察することにしました。40日後、偵察から帰って来た彼らは、モーセに報告します。ヨシュアとカレブ以外は、カナンの地の豊かさを話しましたが、そこに住む民の強さに恐怖を語りました。
結果、イスラエルの民は、ここから40年近く荒野をさまよい、遠回りすることになりました。その後、エジプトから出た民のほとんどは荒野で死に、モーセも死んで埋葬されます。
後を継いだのは「ヨシュア」、偵察隊の中で、カナンに進むことを進言したヨシュアです。彼は、カナンの民ではなく、信仰の目で神を見ていたのです。
へブル人への手紙11章では、信仰の人の証が記されています。ここに「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。「望んでいること」とは何でしょうか。考えられるのは、神が私たちに望んでいることでしょう。だとすれば、神が望んでいる事柄を「私の望みとする」ことが「幻」を持つことであり、信仰は、神からの確信として保証されるのではないでしょうか。
それは、「目に見えないもの」を確信させる(受け身)ものです。ヨシュアは、目に見えるカナン人の力強さではなく、目に見えない神からの力を見、確信が与えられました。モーセにはできなかったことが、ヨシュアによってみことばの約束が成し遂げられようとしています。
神が、アブラハムに約束された「約束の地カナン」は、明確でした。東はユーフラテス川から西は大海(地中海)まで、「足の踏む場」を与えられるというものでした。足の踏む場という表現は面白いものです。アブラハムが行くところは全部与えられるということです。それは「行動による征服」です。昔、アメリカの西部開拓時代、政府が移住者に約束しました。それは、最初に行って杭を立てた者が、その土地の所有者とされるということです。合図とともに、馬を走らせて、できるだけ多くの土地の所有を求めました。
主も「全世界に出ていき、すべての人に福音を伝えよ」と命じられましたが、現在も拡大中です。それは、孤軍奮闘ではなく、主が共にある強さです。
1、「強くあれ。雄々しくあれ。」ヨシュア記1章6、7、9節
39年前、民はカナン帰還を恐れました。すばらしい場所ですが、強い敵を恐れたのです。民数記13章「バラン事件」です。確かに、サタンの支配している世は恐れをもたらします。しかし、神の約束の地です。強く勇敢であれ。なぜでしょう、「主が共におられる」からです。信仰の反対は、不信仰ではなく、恐れです。
2、「みことばの約束に生きる。」ヨシュア記1章8節
神の誓いです。主は私たちに、誓ってはならないと仰せられました。それは、自分では果たせないからです。しかし、主はご自身に誓われました。なぜでしょう、それは必ず果たされるからです。
3、「ヨルダン川を渡れ。」ヨシュア記1章2節
神の信仰に生きるか否かの分岐点です。以前、神の約束を疑い、躊躇し、否定しました。この時、ヨルダン川の水かさが増していました。以前、紅海を渡った時は、彼らが海に入る前に、水が引き、乾いた地に足を踏み出したのです。この時は、いつにも増して急流で、せき止められてから渡るのではなく、流れに足を踏み入れる必要があったのです。先頭は「契約の箱」、部族の代表12人、そして民と続きます。
ヨシュア、それは私たちには「主イエス」です。幻が与えられ、みことばに従い、聖霊に力づけられ、進もうではありませんが。御国を目指して。