さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
ヘブル人への手紙11章1節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「今日は良い知らせの日」列王記第二7章1〜9節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 県の緊急事態宣言が9月30日まで延長されました。会堂での礼拝は9月26日まで現在の状況で推移します。10月から集まっての礼拝が再開できるように願っています。
- 会堂の給水器は撤去しました。水分補給は各自水筒を持参するなどお願いします。
- 献金される方は下記に振り込むことが可能です。
沖縄海邦銀行 普天間支店 店番:042 口座番号:653969
単立 恵みバプテスト教会 - このような状況下、皆様の霊肉共に守られるように心からお祈りいたします。
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
今日は良い知らせの日
列王記第二7章1〜9節
ウイルスの世界的な蔓延は、政治、経済だけでなく、個人の生活にまで大きな影響を与えています。教会もそうですが、思いがけない出来事が「暮らし」そのものを変え、計画の変更や中止をやむなくさせています。
今日のテーマは「良い知らせの日」です。このような状況で、どこに良い知らせがあるのでしょうか。
実は、聖書は「福音」が預言されています。福音そのものはコリント人への手紙第一15章1節から「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、またケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」とあり、イエス・キリストに関することです。この「私たちのために」というのを「私のために」と個人的に信じ受け入れることが、福音を自分のものとすることができ、いわゆる罪とその罰から「救われる」のです。
聖書は福音の書です。「神の愛」が全体を貫いています。
さて、現在の状況の中で、どこが「良い知らせ」と言えるのでしょうか。
1、この世界は、神である創造主によって造られた作品であり、御子イエスに在って保持されています。コロサイ書1章16〜17節
私たちは、自然に湧き出てきたものではなく、神によって造られたのは目的や計画、生きる意味があり、また使命も与えられています。
2、すべての人は罪人です。罪にはさばきがあり、死をもたらします。ローマ書3章23節、6章23節
「すべての人は・・・」という時、例外はありません。私もあなたも聖書は罪があるとしています。
「私は罪人」のどこが「良い知らせ」なのでしょうか。大変悪い知らせです。この悪い知らせを、良い知らせにすることができます。また「事実」でもあり、現状を知ることになるのです。「なんくるないさ」このままで大丈夫と言えないのです。この、自分ではどうすることもできない罪の罰を、イエスが身代わりに負って死んでくださったのです。「私は罪人」という悪い知らせが、救い主を受け入れるという良い知らせに変えられるのです。
人は、信じようと信じまいと、死後必ず神の前に出ます。黙示録20章12〜15節
この世界でも法律に違反する犯罪を犯した場合、さばきがあります。さばきの場に出たくなくても、拘束され、自由を奪われ、無理矢理でも力づくで被告席に立たされるのです。
3、イエスの死からの復活です。復活は、「死は終わりではない」ことを示しています。
4、神は恵深い方です。ローマ書3章21〜24節
聖書の神のすばらしいことは、人の努力や熱心ではなく、救いは神の一方的な「恵みによる」ことです。もし人の能力が問われるなら、一生かかっても駄目だし永久に諦めなければならないでしょう。詩篇49篇1〜12節
5、福音は「イエスを主と告白する」ことによる。ローマ書10章9節
それは「見よ。今は恵みの時、今は救いの日です。」コリント書第二6章2節
列王記第二7章で、アラムの軍隊がエルサレムを攻めてきて、街を包囲していました。民は、極度の食糧難で餓死者が出ていました。預言者エリシャは「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。明日の今頃・・・食料が安価で売られる」と。王の侍従は「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」と。そこにツァラアトに冒された4人が敵の陣地で食料を見つけます。彼らは自分たちで充分食べた後、民に伝えます。「今日は良い知らせの日」と。