すべて疲れた人、重荷を負ってる人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
マタイによる福音書11章28節
敬拝
- 黙想 静かに礼拝に備えます
- 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
- 祈り
- 勧め 「パウロと弟子の関係から」テモテへの手紙第二1章1〜2節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 会堂における礼拝について、次週の8月30日もお休みです。インターネットを使った配信やCDを聞いてくだされば幸いです。
- 聖書の学びも8月はグループでも個人でもお休みとします。またお尋ねしたいことやご質問等ありましたらご連絡ください。
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
「パウロと弟子の関係から、神と人との関係を見る」
テモテへの手紙第二1章1〜2節
1、「子供」
使徒パウロの手紙は教会宛と個人宛があります。特に個人宛にはテトスやピレモン、テモテなどがありますが、手紙ですから挨拶から始まっています。その挨拶の中にパウロは自分の使徒職を用い、宛名の表現に特徴があります。テモテには「愛するテモテ」と記し、主にあって愛する「子」とあります。これは他の個人宛にも用いられていますが、どうして「子」と言うのでしょうか。テトスには「同じ信仰による、まことのわが子テトスへ」(テモテへの手紙第二1章4節)と、さも自分の子供のような表現を用いています。
テモテに関しては、幼い頃から祖母と母から聖書を学んでいたことが記されていますが、もしかしてテモテが新生したのはパウロに出会ってからのことで聖書を学んでいた子供の頃ではないのだろうかとも取れます。「わが子」と言うのは、自分がイエスの救いに導いたと言うので、わが子と言っているのかと考えましたが、信仰による、まことの、わが子と言うのは、父なる神からイエスの復活によって「子とされた」ことを指しているのかもしれません。なぜなら、イエスの復活は詩篇2篇7節で「私は主の定めについて語ろう・・・あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ」とあり、これは降誕についての預言ではなく、復活についての預言であることが使徒13章33節で解き明かされています。それは、パウロと弟子の関係が、父なる神と信仰者の関係を示し、まことの親子関係が構築されたことをメッセージしているのです。人はもちろん親から生まれてくるのですが、実はまことの親は父なる神であり、信仰による親子関係の回復を示し、父から離れた放蕩息子のように、迷子の羊のように「帰還」を言うのです。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意思によってでもなく、神によって生まれたのである。」ヨハネによる福音書1章12〜13節
2、「兄弟」コロサイ人への手紙1章1節
パウロとテモテはいわゆる肉親ではありません。兄弟というのは「父」の元にある家族という意味です。この世では「兄弟は他人の始まり」と言いますが、神にある兄弟は「永遠の家族」絆で結ばれています。永遠や無限という言葉は神にしか使うことができません。コロサイ人への手紙1章2節では「聖徒」と呼ばれ、聖い神の家族とされたことを言います。神はどこまでも聖い方ですから。
コロサイ教会では「忠実な兄弟」と呼ばれていますが、この時代、コロサイ教会には偽兄弟の問題があり、分裂をもたらしていました。世の価値観で生き最終的には兄弟たちを「迷信」と思い撹乱させ、やがて教会から去って行きました。でも残された信徒がいて「忠実な」という呼び方をしなければならなかったからです。パウロは挨拶の中でいつも「恵みと平安が・・・」と言います。それは恵みによる平安で、行いによる平安ではないのです。この世の価値観とは相容れないのです。この世の与える平安はいつか崩れます。しかし神による平安は永遠です。
3、「同労者」ローマ人への手紙16章21節
パウロはその働きを「福音のため」と言います。神のためとは言っていません。人が救われなくて困るのは神ではなく人だからです。
しかし、この世の働きには戦いがあります。それは「世」と戦うのではなく「世の支配者」との戦いです。最近、サタンは最期と思えるあがきをしています。信仰を迷信としたり、進化論で聖書は科学的ではないとしたり、「666」の世界総統が出てくるための「道ならし」である、人民の管理、思想管理、経済的管理などを進めています。今回のコロナ禍で、地上の権威がコントロールでき得る土壌が整いつつあると思います。今は霊的戦いのただ中です。