イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という第二の戒めも、それと同じように重要です。
マタイによる福音書22章37~39節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「三本の十字架」ルカによる福音書23章32~43節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 本日10時の礼拝メッセージはミッキー兄です。
- 予定していた夏季キャンプと夕涼み会は、状況に鑑み、延期いたします。再度、開催できるようお祈りください。
- 婦人のための祈りの時間がスタートしています。2階の奥の左側の部屋です。
- 教会学校の奉仕者を求めています。子供たちの信仰のためにぜひ。
- 暑さが続いています。教会の冷蔵庫に飲み物がありますので、ご自由にどうぞ。
ディボーションノート「水路のそば」
8月1日(月) | ヨハネによる福音書10章22〜42節 |
8月2日(火) | ヨハネによる福音書11章1〜44節 |
8月3日(水) | ヨハネによる福音書11章45〜57節 |
8月4日(木) | ヨハネによる福音書12章1〜19節 |
8月5日(金) | ヨハネによる福音書12章20〜50節 |
8月6日(土) | ヨハネによる福音書13章1〜30節 |
8月7日(日) | 詩篇119篇1〜40節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
三本の十字架
ルカによる福音書23章32~43節
聖書には、聖書だけの教えがあります。あるいは、排他的と言えるかもしれません。
その1つは「世界の創造主」の存在です。天地万物は、この「唯一の神」によって造られました。それは、仮に、イメージした神々ではなく、現実に生きておられる、いのちの神がおられる、その方は自存性で、その存在は他の何者の助けも必要とされません。
もう1つは、恵みなる方です。恵みとは「ふさわしくない者に与えられる神の愛」です。ですから、神が私たちに求めておられることは、信仰、それも「ただ信じなさい」です。
どなたをと言えば、使徒の働き4章12節で、イエスのことを「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」と排他的でもありますが、それは探さなくても、すでに示されていると預言されているのです。
最近話題になっている団体は、恵みではなく行いが求められているようです。彼らも聖書を用いるようです。ならば、エペソ書の「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません・・・」をどう読むのでしょうか。神は、救いのために95%のわざをなしてくださったから、残りの5%は私たちの責任だと、地獄に落ちないために、先祖の苦しみの解放のために・・・しかし、以前の私も同じように考えていました。「ただ」信じるだけでは、あまりにも自分勝手で虫が良すぎると。
ルカによる福音書23章には、死刑場に三本の十字架が立てられています。真ん中は罪のない主です。そして左右に2人の犯罪人がいます。実は、背後にもう1人の死刑囚がいます。「バラバ」です。この3人は、自他ともに認める罪人です。彼らは、イエスを呪い、悪口を言っていました。しかし、そのうちの1人は、イエスをののしっている人に「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。俺たちは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」(ルカによる福音書23章40~41節)
恐らく、救われた後の信仰生活が最も短い人かもしれません。まず、彼らに共通しているのは、罪人(犯罪人)ということです。1人はイエスのゆえに釈放され、1人はそのまま処刑されました。ですが、この人は信じました。
1、自分の罪を認め、その罰を受けていること
2、神を恐れていること
3、罪のないイエスが処刑され、御国に入られること
そして、その時、イエスが御国に凱旋される時、自分をおぼえてくださいと祈りました。礼拝の機会も、水のバプテスマを受ける機会も、会衆とともに祈る機会もありませんでした。彼はやがてではなく「今日」ともにパラダイスにあったのです。彼は、罪のないイエスが処刑され、罰を受けていることが、自分たちの罪の「報い」を受けているのだと信じたのです。罪の報いは死です。しかし、イエスを信じる者は、自分のしたことの報いを受けるのではなく、神の一方的な恵みによって救われる体験をしました。
実は、聖書の神以外に「恵み」という概念はありません。この世界は「蒔いた種を刈り取る、良い種は良い実を、悪い種は悪い実を刈り取る」のです。その罪という悪い種を神の御子が代わりに刈り取ってくださったのです。