わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
マタイによる福音書28章20節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「パラダイムシフト」ヨハネによる福音書15章1~11節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 今年の夕涼み会は7月31日(日)19:00~教会で予定しています。ですが、状況によっては中止となります。
- 今年の夏季キャンプは8月8~10日に奥間ビーチで行う予定です。講師は、信仰バプテスト教会の吉田師をお招きしています。定員は20名となっています。詳細はチラシをご覧ください。
- 本日午前9時から、婦人のための祈りの時間がスタートします。
- 教会学校の奉仕者を求めています。子供たちの信仰のためにぜひ。
ディボーションノート「水路のそば」
7月18日(月) | コリント人への手紙第二6章1〜18節 |
7月19日(火) | コリント人への手紙第二7章1〜16節 |
7月20日(水) | コリント人への手紙第二8章1〜24節 |
7月21日(木) | コリント人への手紙第二9章1〜15節 |
7月22日(金) | コリント人への手紙第二10章1〜18節 |
7月23日(土) | コリント人への手紙第二11章1〜23節 |
7月24日(日) | 詩篇117篇1〜2節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
パラダイムシフト
ヨハネによる福音書15章1~11節
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶのもはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」(ヨハネによる福音書15章1~2節)
聖書には、真理を教えるために例えを用いられます。その中の植物では、無花果、葡萄、オリーブがよく用いられます。今回は特にぶどうの木です。
1、まことの・・・(ヨハネによる福音書15章1節)
「わたしは・・・」は、14章で主イエスご自身のこれからを話されましたので、主のことです。ここで、わたしはぶどうの木ではなく、まことの・・・を冠としました。それは、ぶどうの木の存在目的は、イエスを表し証するものです。例えば主は「わたしは世の光、地の塩、門です」などと例えておられるようにです。わたしの父は「父なる神」のことで、その働きは農夫です。農夫は、畑を耕し、種を蒔き、水を注ぎ、雑草を抜いたりします。目的は「実を得る」ためです。神の救いの計画は、父によってなされ、進行していることが示されています。「それは、わたしは父を愛していて、父が命じられたとおりに、世が知るためです。」(ヨハネによる福音書14章31節)
主イエスはぶどうの木であるなら、私たちは「木につながれた枝」と仰せられ
2、つぎ合わされた枝
枝は、根からの水などの養分を得て育ちます、スタートは、ローマ人への手紙6章1~9節にあるように、水と御霊の働きによって新生し、キリストのいのちに生かされる者となったことを意味します。(ヨハネによる福音書3章5節)「肉によって生まれた者が、御霊によって新しく生まれた」(ヨハネによる福音書3章6節)聖霊によるバプテスマを受けたのです。
この解き明かしは「野生のオリーブ」にあります。使徒パウロは「あなたが、本来野生であるオリーブから切り取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば・・・」(ローマ人への手紙11章24節)野生からの接ぎ木は、まさにパラダイムシフトであり、奥義であるといえます。天動説と地動説の違いのようです。
このことを聖書は結婚に例えています。夫であるイエスに嫁いだ花嫁として教会が描かれています。夫婦は一体で、財産を共有します。夫婦は家族を建て上げるのです。不必要なものは農夫によって切り取られ、実が収穫されるのです。花嫁は夫のみことばによって聖くされています。
3、とどまる
イエスに接ぎ木され、とどまるとは、恵みによる信仰によってです。つぎ合わされていなければ「枝のように投げ捨てられて枯れます」切られ、いのちのない枝は、水であるみことばが流れていませんから、枯れてゆき、人々によって焼かれてしまうでしょう。「罪の報酬は死です」(ローマ人への手紙6章23節)
イエスにとどまり、神の愛にとどまり、花嫁の集まり教会にとどまりなさいと。
4、イエスはわたしの友(ヨハネによる福音書15章13、14節)
「友」の証は、ヨハネによる福音書12章23~25節にある「一粒の麦」です。農夫である父は、「一粒の麦」として、御子に、愛する者の罪の罰を被せます。イエスの十字架の死は、豊かな、多くの実を結ぶための父の計画です。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネによる福音書3章14、15節)