2022年7月3日

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

コリント人への手紙第二3章18節

敬拝

  • 賛美 主のご栄光をほめたたえます
  • 祈り
  • 勧め 「人が救われるために」ローマ人への手紙10章1~13節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • コロナ禍は依然として収まっていません。この中にあっても守られ礼拝が続けられることをお祈りしましょう。

ディボーションノート「水路のそば」

7月4日(月)ヨハネによる福音書6章16〜40節
7月5日(火)ヨハネによる福音書6章41〜71節
7月6日(水)ヨハネによる福音書7章1〜24節
7月7日(木)ヨハネによる福音書7章25〜36節
7月8日(金)ヨハネによる福音書7章37〜53節
7月9日(土)ヨハネによる福音書8章1〜30節
7月10日(日)詩篇115篇1〜18節

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

人が救われるために

ローマ人への手紙10章1~13節

使徒パウロが、ローマ教会に手紙を書きました。パウロの心の願いと祈りは、「彼ら」の救いです。ここでいう「彼ら」とは、異邦人たちのことです。ローマ教会は、ほとんどが異邦人たちで、ローマ社会は、多神教の国、特にギリシャ人たちは、世界に神は満ちていると考えていました。いわゆる宗教です。

その特徴は、熱心さです。現在でも、多くの宗教は熱心を求めます。しかし、パウロはその熱心は知識に基づくものではないと言っています。ここでいう知識とは、「みことば」です。ほとんどみことばを知りませんでした。ある意味、東からもたらした新しい宗教、それは律法を行うことによって救われるというユダヤ教の範囲でした。

1、宗教ではなく真理

聖書は、始めに神ありてです。人ありてではありません。宗教は、人ありて神をイメージし、その救いの方法も過程も人が作り出したものです。ですから、彼らが手にした旧約聖書の律法に従って生き、その熱心さを競ったのです。その結果、互いに比較し、どの人が天に達し、どの人が無理だろうと考えていました。この世は、努力し熱心に頑張った人が報われる世界です。これを、キリスト教にも適用しました。これでは救いの確信はありません。どれだけ頑張ったら天国にいけるのかがわからないという不安が常に付きまといました。

2、みことばにある救い(ローマ人への手紙10章8節)

ペンテコステの出来事から帰った彼らは、エチオピアの宦官が聖書を持っていたように、彼らも聖書を持っていました。申命記30章14節の引用です。

私の知人は、ある仏教の信徒で檀家です。冠婚葬祭はほとんど欠かさず行います。開祖の名前も知っていますが、その教えは知らないし、学ぼうとはしません。ローマ教会も同じような状況にあったのだろうと思います。

パウロは「みことばは、あなたの近く、口にあり、心にある」と言っています。すぐ手の届くところにあるのに、読まない、学ばない、ただただ熱心に神に仕えることがすべてでした。

これは「救い」を自分の行いにかけている状態です。そこでパウロのいう「信仰のことば」は・・・

3、信仰のことば(ローマ人への手紙10章9節)

何かの宗教団体に加入して、熱心さを競うのではなく、個人的に「口でイエスを主と告白し・・・」これは、すべての人は「自分んが主」だったからです。自分が正しいと思うことに生きてきたのです。その結果が、罪の世界に安住してきたのでしょう。しかし聖書は、「イエスが主」と神の前に降参し、罪からの救いも、これからの生活も、「イエスを主として生きる」告白です。

そのためには、「心で神はイエスを死者の中からよみがえらせた」と信じ受け入れる必要があるのです。復活は、能力ではとうてい受け入れられない真理です。ですが、復活を信じないなら、みことばは信じられないという意思表示になっています。「信仰のことば」とは、人が努力して神の救いに達するのではなく、到底救いに価しないような罪人である神が、その一方的な恵みによって「救われる」神の100%の働きであることを信じ受け入れることです。人の何かが救いのために必要なら、到底できないのです。なぜ、クリスチャンなのに救いの確信がないのでしょう。それは、みことばの約束に生きていないからです。宗教的な世界観に縛られているからです。大切なのは、「聖書がこういっている」です。