それで、後のことを予見し、キリストの復活について「彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることはない。」と語ったのです。このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
使徒の働き2章31~32節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「もうお手上げ。しかし・・・」ローマ人への手紙6章23節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 教会の法人化が進んでいます。現在法務局への手続きに入っています。共に在る主の助けが必要です。続けてお祈りください。
- コロナ禍は依然として収まっていません。この中にあっても守られ礼拝が続けられることをお祈りしましょう。
ディボーションノート「水路のそば」
6月27日(月) | ヨハネによる福音書4章1〜26節 |
6月28日(火) | ヨハネによる福音書4章27〜38節 |
6月29日(水) | ヨハネによる福音書4章39〜54節 |
6月30日(木) | ヨハネによる福音書5章1〜24節 |
7月1日(金) | ヨハネによる福音書5章25〜47節 |
7月2日(土) | ヨハネによる福音書6章1〜15節 |
7月3日(日) | 詩篇114篇1〜8節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
もうお手上げ。しかし・・・
ローマ人への手紙6章23節
「人道」という言葉がよく聞かれます。ロシアとウクライナの争いが続いていますが、「人道支援」「人道回路」などに用いられます。辞書には「人の生きる道」とありますが、戦争自体人道的な戦争というのはありえないでしょう。
現在、社会では、戦争を始め、生きることが阻害されたり、いじめなど互いに傷つけあったり、犯罪がエスカレートしているような気がします。いのちの尊厳が大切にされない時代と言えるかもしれません。コロナ危機が始まったとき、多くの死者が出て、命の選択という事がニュースになりました。
終末がちかいことを暗示しているのかもしれません。人間は、アダムが全能者に対してみことばを否定するという罪を犯した原罪は、人々の愛が冷え、他者を軽んじ、秩序が失われているのかもしれません。確かなことがわかりませんが、良いように向かっているとは思えなくなりました。
聖書に触れる時、最初に目につく言葉が「罪」です。すべての人は例外なく罪人です、と断言します。今日の箇所は「罪の報酬は死です」(ローマ人への手紙6章23節)です。罪の恐ろしさは、人には大したことではないような印象があります。あなたには罪があります、と言われても、「ほっておいてくれ」「あなたには言われたくない」「小さなことで、誰でもやっている」と、例えば車を運転している人で、私は一度も違反したことはありませんと言える人は少ないと思いますが、自分でも取り上げるほどのことではないと考えています。
ですが、聖書が罪という時、その代償がどれほど大きいかが示されています。「非常に良かった世界」が(創世記1章31節)人はその能力でどうすることもできないほどの破滅、破壊を生んでいます。その最もたるものが「死」です。ギリシャ語では「サナトス」と言って、神のいのちと永遠の分析、滅びを意味します。罪の語源は「的外れ」といいますが、人はその幸福のために歩む道が、違っていると聖書は警告するのです。
「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」箴言14章12節
1、「しかし」
「罪の報酬は死です」で聖書が終わっているなら、絶望しかありません。23節は「しかし、神の賜物は・・・」と続きます。
以前、家内を車で送っていくとき、その帰路ガス欠になりました。メモリがかなり下になっていましたが、無視してそのまま運転していましが。ですが、田舎の暗い夜道でエンジンストップです。途方に暮れましたが、ふと前方をみると、この不安はなくなりました。ガソリンスタンドの灯りが見えたのです。しかし、絶望が希望に、不安が平安に、闇に光がさしたのです。ここで「しかし」神の賜物はとあります。報酬は、ではありません。報酬は「行いの代価」です。黙示録には「白い御座のさばき」があります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・」(へブル人への手紙9章27節)の審判です。それは、アダムの原罪ではなく、その人の「自分の行いに応じて」(黙示録21章13節)であり、その実は「臆病、不信仰、忌まわしい、殺人、淫らな、魔術、偶像礼拝、偽り・・・」(黙示録21章8節)がさばかれるのです。
「しかし」の意味は「賜物」の存在です。賜物というのは、プレゼント代価を払わなくても受け取る「永遠のいのち」です。これを恵みによる信仰によってといいます。
2、「つく」
なぜ円円のいのちが無代価の賜物なのでしょうか。それは「受けるべく罪の報い」をイエス・キリストが身代わりに受けてくださったからです。(ローマ人への手紙6章3~11節)イエスの十字架の死と復活に「つく」ことによって「一つ」とされたのです。イエスの死は私の死、復活は私の復活であり「永遠のいのち」をともに相続したのです。
3、死は終わりではない。死の向こうは・・・
ローマ書は使徒パウロがローマにある教会に宛てた手紙です。教会の存在意義と使命があります。それは「キリストの復活」です。信じる者が「永遠のいのち」が与えられるのは、キリストのいのちを共有する、相続することです。ですから、「私たちはみな、そのことの証人です」(使徒の働き2章31~32節)