2022年5月29日

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いをうけさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有効です。

テモテの手紙第二3章15~16節

敬拝

  • 賛美 主のご栄光をほめたたえます
  • 祈り
  • 勧め 「最後の晩餐・聖餐」マタイによる福音書26章26~30節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 本日2022年5月29日(日)教会総会を行います。一度目は11:30am、二度目は12:15pmからです。教会員の方はお集まりください。また、参加不可能な方は、委任状を提出してください。
  • 早朝礼拝のメッセージはミッキー兄です。祝福をお祈りください。

ディボーションノート「水路のそば」

5月30日(月)列王記第一8章22〜40節
5月31日(火)列王記第一8章41〜66節
6月1日(水)列王記第一9章1〜28節
6月2日(木)列王記第一10章1〜29節
6月3日(金)列王記第一11章1〜43節
6月4日(土)列王記第一12章1〜19節
6月5日(日)詩篇110篇1〜7節

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

最後の晩餐・聖餐

マタイによる福音書26章26~30節

御霊の降臨、内住に始まった教会が、約2000年間守ってきた礼典があります。それは、バプテスマ式と聖餐式です。

今日は、聖餐について聖書から考えてみたいと思います。

イエスは「ことばをもって語り終えられると」(マタイによる福音書26章1節)今度は、ガリラヤから従ってきた弟子たちに言われました。「2日たつと過越の祭りとなり、人の子(ご自身)が十字架につけられるために引き渡されます。」と。表面上は、イエスが宗教指導者に渡され、裁判を受け、さばきが下されるわけですが、実はイエスはもう1つのさばきを受けておられます。それは、罪人の罪と咎の身代わりに、さばき主であられる父の神のつばきを受けられるのです。その意味で、天の法廷に立たされるのです。

その「時が来た」ために、イエスは愛する弟子たちと過越の食事をされるのです。イエスは弟子たちに食事の用意をさせます。弟子たちは、その用意をし、食卓につきます。その弟子たちの1人がイエスを裏切り、いつもともにいた主が離れられます。最後の晩餐は「祝いの席」です。ですが、哀しい時でした。

過越は、出エジプトから始まりました。1400年前、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民は、神によって示され食事の用意をします。出されたパンは種無しで「罪のない」ことを表し、1匹の傷のない羊がほふられ、血がかもいに注がれ、肉を焼いて食しました。「血によるあがない」です。イサクの時のようです。

また、新しい出発でもあります。彼らは、旅の用意をしました。「腰の帯を締め」「足に履物をはき、手には杖を持って」(出エジプト記12章11節)。エペソ書6章には、帯びは「真理の帯、真理はキリスト」、履物は「平和の福音」、杖は「権威、神の力」と記されています。それは、世から神の王国への旅立ちです。

マタイによる福音書26章では、主は御国への旅立ちの支度を命じ、実行されたのです。12人の弟子たちの中には、ユダがいました。裏切る者とあります。イエスは、ユダについて「生まれてこなければよかった」と言っています。大変厳しく冷たいことばに見えます。存在の否定です。なぜこのようなことをおっしゃったのでしょう。それは、人は、神に祝福されるために生まれるからです。ユダは、その恵みを拒んだのです。聖書の中に、神のさばきの箇所が多くあります。その都度、悲しんでおられる主がいるのです。創造さえ「しなければよかった」と言われるくらいです。

続けて主は、ユダに「友よ」(マタイによる福音書26章50節)と呼び掛けておられます。友とは、箴言17章17節で、「友はどんな時にも愛する者」と記されています。裏切る者も、主はその愛を止めなかったのです。それから、30数年たち、コリント教会でも聖餐が守られていました。ですが、その意味や目的などがかなり失われていました。コリント人への手紙第一11章には、特に「ふさわしくない仕方」とあります。それは、聖餐ではなく、豊かな者が宴会で酔っ払って騒いでいる状態でした。パウロは「自分を吟味して」と言い。本当に信じているのかと問いかけています。罪赦され、神のいのちがあるのか、と。それは、聖餐に預かる資格がないということです。「みからだをわきまえないで」というのは、パンが裂かれる、イエスの十字架が自分たちのものになっていないと叱責しています。

「あなたがたの中に弱い者や、病人も多く、死んだ者たちもかなりいるのはそのためです。」(コリント人への手紙第一11章30節)

コリントの町は豊かで、自由人は働かず、奴隷が労働していました。ローマの滅亡の理由は飽食であったためと言われていますが、働かず、食べ過ぎて、身体の健康を害し、飲みすぎて、心の病になる人が大勢いました。それは、教会の中にもいたのです。その宴会は、家庭で食事をする時よりもひどい有様でした。

それから2000年近く、教会は聖餐を守ってきました。それは、イエスのあがないのみわざを記念し、罪の中に死んでいた、滅びに向かっていた私たちを救い出してくださった、地獄ではなく天国への旅の出発点であり、契約の原点です。