神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者をいやすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
イザヤ書61章1節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「でも、おことばですので、」ルカによる福音書5章1~11節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 本日2022年4月10日(日)ビジョン会があります。教会員の方はご参加ください。
- 本日2022年4月10日(日)イースター記念バプテスマ式を行います。兼島姉が受浸されます。祝福をお祈りください。
- 来週2022年4月17日(日)午前10時より、イエス・キリストの復活を記念し、復活祭合同礼拝を行います。早朝礼拝はお休みです。
- イスラエルの民の、ウクライナからの帰還サポート献金は\59,000でした。B.F.P.Japanに振込ました。感謝します。
ディボーションノート「水路のそば」
4月11日(月) | ヨシュア記3章1〜17節 |
4月12日(火) | ヨシュア記4章1〜24節 |
4月13日(水) | ヨシュア記5章1〜15節 |
4月14日(木) | ヨシュア記6章1〜27節 |
4月15日(金) | ヨシュア記7章1〜26節 |
4月16日(土) | ヨシュア記8章1〜35節 |
4月17日(日) | 詩篇103篇1〜22節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
でも、おことばですので、
ルカによる福音書5章1~11節
イエスは、イスラエルの北部ガリラヤ地方で、神の国の福音を宣べ伝え始められました。それは、メッセージだけでなく、病のいやし、悪霊からの解放等、旧約で預言されたメシヤとしてのしるしが伴っていました。
ルカによる福音書5章は、「さて」というみことばで始まります。この時には、多くの群集がイエスに押し迫っていました。特に、ガリラヤ地方はゲネサレの地と呼ばれ、異邦人が数多く住んでいました。ですから、群集の中にも異邦人がいたと思われます。
イエスは、湖の岸辺に立たれました。岸辺では、夜中ずっと漁をしたにもかかわらず、一匹も獲れなくてがっかりしている漁師たちが、明日に備えて網を洗っていました。湖岸でみことばを聞いている群集を横目に見ながらです。
その時イエスが、その中の1舟、シモンの舟に乗られ、陸から少し漕ぎ出すようにシモンに頼まれました。シモンの舟が選ばれたのは、すでに作業が終わっていたからかもしれません。イエスは、舟に座ってメッセージを始められました。イエスは、漁師たちが漁をしている時から、この場におられました。
1、イエスからシモンへの最初の願いは、舟に乗って少し漕ぎ出すことです。
シモンは、イエスの願いを聞き入れて乗船し、岸から少し離れることを受け入れ、その通りにしました。小さな舟に、イエスとともに乗っていました。
2、イエスからシモンへの2つ目の願いは、深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕ることです。
これは、1つ目のことばの「願い」ではなく、「命令」です。群集へのメッセージは終わっています。イエスの招きは、命令形に変わっています。それはちょうど、クリスチャンが隣人に「教会に行きませんか」との願いから、教会では「主イエスを信じなさい」の命令に変わっているのと似ています。
しかしシモンは、このことばに否定的です。「先生(律法の師)、私たちは夜通し働きましたが、何一つ獲れませんでした。」
「深みに漕ぎ出して」というのは、さらに深いところという意味ではなく、少し漕ぎ出していたので、さらに漕ぎ出してという意味で、おそらく「いつもの場所」と考えられます。しかし、この命令は願いではありません。この方は、大工の息子、いわば素人ではないか、漁の何がわかっているのか、偉そうに、と拒むこともできます。
「でも」これが信仰と不信仰の分水嶺でした。「おことばですので」せっかくですからのようです。まだ半信半疑です。「網を下ろします」ではなく、「網を下ろしてみましょう」と反応しています。
結果、「そのとおりにすると」イエスのみことばに従うと大漁を経験し、その数が網が破れそうにという表現で、とてつもない祝福を示しています。イエスは、自然を支配しているように、人の熱にも命令するように、魚に命じたのです。
シモンの反応は「主よ」に変わります。律法の師ではなく、預言された「救い主」です。ですがシモンは、とっさに「私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言います。まったく聖い方に触れられた時に、罪がわかったのです。罪は、みことばに触れられて初めてわかります。シモンは、私は汚れたふさわしくないものです、と恐れました。
3、イエスからシモンへの3つ目の願いは、恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになる
魚は網で獲ります。しかし、人は福音で捕るのでしょう。泳いでいる魚を手で獲ることはほとんど不可能です。どんなに素早い人でもです。ですが、福音という道具が与えられています。彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」とあります。主イエスのみことばに生きるものとされたのです。