2022年2月13日

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため、その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。

ペテロの手紙第一2章24節

敬拝

  • 賛美 主のご栄光をほめたたえます
  • 祈り
  • 勧め 「恵みによる信仰」エペソ人への手紙2章4~10節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 沖縄県のまん延防止期間が2022年2月20までとなっています、解除後、対面での会堂礼拝を再開します。ウイルスがなくなるわけではないですので、対策を講じながら進めましょう。
  • 本日(2022年2月13日)の早朝礼拝のメッセージはミッキー兄です。
  • 先週の役員会で、宗教法人の申請手続きの進捗状況が報告されました。

ディボーションノート「水路のそば」

2月14日(月)イザヤ書33章1〜24節
2月15日(火)イザヤ書34章1〜17節
2月16日(水)イザヤ書35章1〜10節
2月17日(木)イザヤ書36章1〜22節
2月18日(金)イザヤ書37章1〜38節
2月19日(土)イザヤ書38章1〜21節
2月20日(日)詩篇95篇1〜11節

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

恵みによる信仰

エペソ人への手紙2章4~10節

「一度救いを受け入れ救われた者が、救いを失うことがあり得るのか」という質問を受けることがあります。なぜそう考えるかというのは、救いの原動力がどこにあるかという事です。そこで、救いとは何か、何が救いをもたらしたのかを確認し、確信につなげたいと思います。

1、すべての人は、自分の背きの罪の中に死んでいた。(エペソ人への手紙2章1節)

それは、アダムの原罪の相続に由来するものですが、アダムの・・・というよりも「自分の・・・」と個人的にと示されています。神に背き、罪の中に過ごしてきたことが記されています。確かに、私たちは生まれつき信仰者ではなく、神に背を向け「神はいない」世界に生きてきました。それは、無神論という意味ではなく、自分で勝手に神々を作り、自分の個人的な願いを込めて信心してきたのです。人間を造られた創造主ではなく、人間が作った神、偶像でしかなかったのです。

「死んでいた」は、神のいのちから遠く離れ、断絶状態であることを指します。しかし、神はそれを「良し」とされなかったのです。罪を犯したアダムに「神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。『あなたはどこにいるのか』」(創世記3章9節)。再び、神とのいのちの関係に回復する計画を立てられたのです。神のあわれみです。

しかし、人は「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠していました。」(創世記3章10節)と、逃げ、隠れ、迷子の羊状態になりました。

交番の前には掲示板があり、そこには、指名手配犯の顔写真が掲示されています。以前、オウム真理教のメンバーが何人かいました。その中に、菊池さんという方がいました。彼女は逃亡者でしたが、あるお店で働いていました。真面目な働き手として、オーナーは正社員にと勧めましたが、彼女は拒み続けました。追われていたからです。

聖書は、私たちは神から離れた罪人です、と記しています。ですが、神はその罪を負わせるためにではなく、身代わりに負ってくださるとのメッセージを持って帰ってくるように願っておられるのです。

2、「ある日」のイエス・キリストとの出会い

イエス・キリストと出会うきっかけは様々です。英会話、日曜学校、クリスマスにお菓子をもらいに、たまたまクリスチャンとの出会いによって、などです。米子さんは、自殺未遂の結果、町を歩いている時に教会の十字架が目に入ったことがきっかけだそうです。

それは、恵みです。エペソ人への手紙2章8~9節に「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。

「恵みは上(神)から」「行いは下(人)から」と相反します。例えば、オリンピックでの優勝者は、その人の才能や努力の結実です。ですから、金メダルを誇り、人は賛辞で称えます。しかし、イエスの救いは、行いではなく、恵みだというのです。

「タイタニック号の遭難事故」がありました。多くの乗客は、転覆の時に海に飛び込み、投げ出されました。冷たい海面に浮かんでいる時、救助船が来て、何人かは助け出されました。なぜ救われたのでしょうか。救助を信じたのです。しかしそれは、救助船の力によります。賜物です。

3、救いは家族とされること。ヨハネによる福音書1章12~13節

確かに、イスラエルの民は「神のしもべ」として描かれています。しもべには、細かな規則が必要です。それが律法です。会社の社則に似ています。しかし、信仰者は神の子供とされ、子供は家族です。新生は家族に生まれたのです。生まれてから家族になるために努力するのではありません。家族は「クビ」になりません。つまり、救いは行いではなく恵みですから、なくなることはないのです。それは永遠の平安の基礎です。