結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
伝道者の書12章13節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「奇跡の意味と目的」へブル人への手紙1章1~2節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 2022年1月9日から1月31日まで、沖縄県の「まん延防止等重点措置」が発令されています。教会でも、感染防止対策のために礼拝を配信へ切り替えます。配信がご覧いただけない方は、感染対策をしてお集まりください。
- 早朝礼拝は引き続き行いますが、「緊急事態宣言」が発令されたら、休止にする可能性があります。その際はできるだけご連絡いたしますが、連絡が行き届かない可能性もありますので、本ホームページをチェックしてください。
- 感染あるいは濃厚接触者に指定された場合、生活用品や食料品などの買い出しが不可能となり困窮する可能性があります。その際は、牧師までご連絡ください。教会としてできるだけ手配したいと考えています。
ディボーションノート「水路のそば」
1月24日(月) | イザヤ書15章1〜9節 |
1月25日(火) | イザヤ書16章1〜14節 |
1月26日(水) | イザヤ書17章1〜14節 |
1月27日(木) | イザヤ書18章1〜7節 |
1月28日(金) | イザヤ書19章1〜25節 |
1月29日(土) | イザヤ書20章1〜6節 |
1月30日(日) | 詩篇92篇1〜15節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
しるしとしての奇跡
へブル人への手紙1章1~2節
聖書には、多くの奇跡的な事柄が記されています。神のなさるみわざは、常識で理解できてもできなくても、奇跡と言えます。
ですが、聖書には、理解できない驚くべき事柄が記されていますが、全体的にみると、多くの奇跡が集中している時代があることに気づきます。それは、創世記の天地創造から始まり、イスラエルのエジプトからの解放の時代です。
1、出エジプト時代
エジプトでの10の災いから始まり、240万人の民の紅海渡行、40年間の荒野での出来事が記されています。それは、出エジプト記は、自然を造り、支配しておられる神の力を示しているのでしょう。エジプトは、天体や動物など、自然のものを偶像としていました。パウロが記したローマ人への手紙は、イスラエル人ではなく、異邦人であるローマの教会に宛てた手紙です。パウロは、神のしもべであり、福音のために選び出された使徒であると自己紹介しています。そして、手紙の目的・内容は「神が預言者を通して約束された『御子』に関することです」と記しています。幼少から聖書に触れている選民と違って、多神教の環境で育った異邦人に、どのように神とその働き・目的を知らせようとしたのかというと、自然を通してです。
ローマ人への手紙1章19節「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時から被造物を通して知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はありません。」とあります。神の創造の作品「被造物」は、神の存在と力を現わしていて、弁解できないとあります。私は「福音」を聞いた人がないということも否定しているのです。
2、預言者エリヤとエリシャの時代 列王記第一17章など
この時代は、選民イスラエルの存亡の危機の時代です。「バアル崇拝」という、むごい宗教が幅を利かせ、選民イスラエルが偶像によって壊滅状態にありました。
神の介入の目的は、イスラエルの民を守り、いのちのない偶像ではなく、「生きておられる神」を示すことでした。エリヤは、悪王アハブに「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と証言し、その証として「私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」(列王記第一17章1節)と、自然を支配しておられる神を証しました。
3、主イエスと使徒たちの時代
原則は「求めなさい。そうすれば与えられます。」
この時代は、古い契約から新しい恵みの契に移行する時代です。当時のローマ帝国は、イエスも教会も迫害し、その力を見せつけました。しかし、人間の国ではなく、神の国が実現する預言がなされたのです。それは、異邦人だけでなく、選民イスラエルの固い頭も、悔い改めに導く必要に迫られたからです。
救いは「神の恵みと人の信仰による」新しい契約の成就を見たのです。その意味は、罪に対する神の怒りからの解放です。ローマ人への手紙6章では「・・・不義によって心理を阻んでいる人々のあらゆる敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」とあり、救いというのは、罪とその罰である死からの救いというよりも、罪を犯し続けている人への神の怒りからの救いといえます。罪はささやかな楽しみがあるかもしれません。しかし神は「さばき主」です。死後、天の法廷に立たされた時、無期懲役が宣告されます。「人は一度死ぬことと、死後のさばきがある」のです。御子の血(十字架)はすべての罪から解放します。恵みの時代、「神を恐れ、信じる」ことが求められます。