2021年12月5日

苦難の日に、わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめる。

詩篇50篇15節

敬拝

  • 賛美 主のご栄光をほめたたえます
  • 祈り
  • 勧め 「自分のものみやぐらに立つ」ハバクク書2章1~4節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 緊急事態宣言が解除され、日常の生活が戻りつつありますが、続けて対策が必要です。集まりにおいても、制約がありますが、行事を再開できますようにお祈りします。
  • 2021年のクリスマス礼拝は、12月19日午前10時からを予定しています。
  • クリスマスへ向けて、子供たちへのプレゼント用のお菓子を集めています。ご協力お願いします。(12月5日まで)
  • 来週12月12日は、礼拝後にビジョン会を行います。教会員の方はご参加ください。

ディボーションノート「水路のそば」

12月6日(月)ピリピ人への手紙2章1〜11節
12月7日(火)ピリピ人への手紙2章12〜30節
12月8日(水)ピリピ人への手紙3章1〜12節
12月9日(木)ピリピ人への手紙3章13〜21節
12月10日(金)ピリピ人への手紙4章1〜7節
12月11日(土)ピリピ人への手紙4章8〜23節
12月12日(日)詩篇85篇1〜13節

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

自分のものみやぐらに立つ

ハバクク書2章1〜4節

聖書には、ハバククは預言者と記されていますが、この箇所以外にその記述はなく、名前も意味も不明です。ですが、南王国ユダで預言しました。1947年にクムラン洞窟から発見された、いわゆる死海写本に含まれており、使徒パウロも本書を引用しています。

南王国は、カルデヤ王国(バビロン)によって滅ぼされますが、ハバククにとっては心外でした。選民イスラエルの悪に対するさばきがくだされるのですが、よりによってバビロンによってであったからです。

ハバクク書2章1節は「私は」で始まっています。

「自分のものみやぐら」

「ものみやぐら」は町にあり、その目的は敵の攻撃をいち早く発見することです。そして「砦」はその備えです。もちろんこれは、実際の町のものみやぐらではなく、砦も、実際のものを言っていません。むしろ「自分ののもみやぐら」であり、「自分の砦」です。ハバククに、自分のものみやぐらを持ち、立ち、守りを備える砦に立ちなさい、と主は仰せられました。

それは、単に聞くだけに留まらず、この幻を板の上に書き記してとあり、モーセの時に書かれた律法の「石の板」ではなく、板は「粘土板」を意味しています。「土で造られた人間の霊的、心の板に書き記せ」と命じられています。

「ものみやぐら」で見た幻(みことばの啓示)は、やぐらの下で待っている急使によって町に告げられます。それは預言者の仕事です。

ハバクク書2章3節「幻」の中身は?

「定めの時」「終わりの時」についてですが、今、ユダはカルデヤ王国によって滅ぼされようとしています。悪がさばかれ、王国は滅亡へと向かっています。ですが、民はぶどう酒に溺れ、生活を楽しんでいます。神によって選ばれた民が滅ぼされるわけはないと感がているのです。預言者がみことばを叫んでも、意に介さない風潮が支配していました。「楽しければ良い」「短い人生、好き勝手に生きるさ」と言って、酒に溺れていました。ハバクク書2章5節には、酒に溺れる者は、満足を知らず、神のことばよりも人の言葉で生きた、とあります。ですから、預言者が語っても「絵空事」として捉え、聞く耳を持ちませんでした。それは「うぬぼれ」であり、自己中心の高慢が支配する典型です。

主は、エルサレム全体ではなく、「自分の・・・」と個人的に備えなさいと命じています。

ハバクク書2章4節「正しい人はその信仰によって生きる」

ここで「信仰」が問われています。世の中には「信心」という言葉がありますが、これは宗教の求めるものです。

例えば、私は早朝、海岸まで散歩します。すると、必ず朝日が昇ってきます。太陽は、エジプト時代にも「ラー」という神として信じされていました。昇る太陽は、暗闇に光を与え、身を温かくします。人が太陽を拝む理由も、分からないではわりません。ですが、太陽は祈りに応えません。なぜでしょう。それは「いのち」がないからで、太陽は神の被造物に過ぎないからです。では、なぜ人々は、見ることも、聞くことも、叶えることもできない太陽に願掛けをするのでしょうか。宗教者は「それは、太陽を拝んでいるのではなく、自分の決断に対するものだ」と言っています。ですから、信心は、強い人と弱い人に差が出るのです。しかし、信仰は違います。自分の決断力ではなく、いのちのことばである創造主に願うのです。信仰は、自分がどうかではなく、対象者が大切です。いのちのないものにどんなに願っても、何も変わりません。いのちある方、いのちを与えた、生ける神キリストが聞いてくださるのです。「定めの時」と「終わりの時」をです。あとは、神の時、神の方法、神の手です。