2021年11月21日

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

詩篇103篇1節

敬拝

  • 賛美 主のご栄光をほめたたえます
  • 祈り
  • 勧め 藤野 極兄
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 緊急事態宣言が解除され、日常の生活が戻りつつありますが、続けて対策が必要です。集まりにおいても、制約がありますが、行事を再開できますようにお祈りします。
  • 2021年のクリスマス礼拝は、12月19日午前10時からを予定しています。
  • クリスマスへ向けて、子供たちへのプレゼント用のお菓子を集めています。締め切りは12月5日です。ご協力お願いします。
  • 本日の礼拝のメッセージは藤野極兄です。

ディボーションノート「水路のそば」

11月22日(月)ヨナ書1章1〜17節
11月23日(火)ヨナ書2章1〜10節
11月24日(水)ヨナ書3章1〜10節
11月25日(木)ヨナ書4章1〜11節
11月26日(金)ミカ書1章1〜16節
11月27日(土)ミカ書2章1〜13節
11月28日(日)詩篇83篇1〜8節

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

いのちのことば

ルカによる福音書19章10節

2021年も終わろうとしています。教会でも、クリスマス礼拝の準備を始めています。イエス・キリストの誕生日です。実は、イエスは12月25日に生まれられたとは聖書にありません。ですが、この日は世界中で祝われます。クリスチャンでなくても、ケーキを買ったり、プレゼント交換をしたり、ツリーを飾ったりします。世界にはいろいろな記念日がありますが、クリスマスは最も祝福された日と言えるでしょう。

ルカの福音書には、イエスはエリコの町に入り、通っておられた、とあります。そこに、ザアカイという取税人がいました。当時の取税人には給料はなく、集めた税からピンハネして潤い、金持ちであったとあります。残念ながら、自他ともに認めるような罪人と言えるでしょう。このエリコに、イエスが来られたので、ザアカイも一目見たいと願っていました。ですが、背が低く見ることができなかったので、いちじく桑の木に登り、イエスが来られるのを待っていました。

イエスは、木に登っているザアカイに声を掛けられます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカによる福音書19章5節)

クリスマスは、イエスの誕生日ではありません。それは、イエスが父のみもとから来られた時です。イエスは永遠の神ご自身です。

では、なぜ来られたのでしょうか。目的は、理由はなんでしょうか。

イエスはザアカイに「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」(ルカによる福音書19章9節)と言われました。「救う」ために来られたのです。

救いという時、様々な事例が考えられます。経済的困窮、身体的病、あるいは人間関係のもつれなどがあります。どれも大切ですし、救いが必要でしょう。

ルカによる福音書19章10節で、4つのことばを考えてみたいと思います。

「人の子」

これは、聖書的な単語です。「人」は人間です。「子」は子孫です。イエスは三位一体の第二位格、「神」です。ヨハネによる福音書1章1節で、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とされる「神」そのものです。創造主であり永遠なる神が、人となられて来られたと預言されています。イエスは、子孫ではなく先祖アダムの創造主です。この方が、子(子孫)となられたのです。

「失われた者」

それは、元来、神のものであったにもかかわらず、失われている、神の手を離れている状況を指します。ルカは15章で、失われた羊、失われた銀貨、そして父のもとから離れた(失われた)息子の話が記されています。すべての人は、元来、神のものです。私たちはそれを管理しながら使わせていただいています。

「探す」

もし熱心に、見つかるまで探すということは、大切なものだからです。そんなに価値がないものならば、すぐに諦めます。探す時間がもったいないくらいです。失われている人は、神ご自身が探しにこられるほど大切な存在ということになります。

「目的」は「救うため」です。

「救い」はすべての人が犯した罪の罰である「死」からの救いです。神が、それほどまでに熱心に救いをもたらそうとしているのは、永遠の滅び、死からの救いです。

救いの武器は「ことば」です。

経済的な困窮も、病にかかる苦しさも、人間関係に傷つくことも、自死を選ぶくらいの結果を生みます。わが国では、去年2万人いじょうの自殺者が出ました。人は、言葉で罪を犯し、言葉の不足が傷をもたらして病み、死を選ぶほどです。今、神はイエスによって「救い」のことばを語っておられます。イエスが来られる前の旧約最後の預言者マラキが、神のことばを語っています。「わたしに帰れ。そうすればわたしもあなたがたに帰る」(マラキ書3章7節)