このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。
ローマ人への手紙15章20節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「激しく攻められる天の御国」マタイによる福音書11章10〜17節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 本日は10月ビジョン会を行います。教会員の兄姉はご参加ください。教会の現状と会計等の報告があります。
ディボーションノート「水路のそば」
10月11日(月) | 創世記34章1〜31節 |
10月12日(火) | 創世記35章1〜29節 |
10月13日(水) | 創世記36章1〜43節 |
10月14日(木) | 創世記37章1〜36節 |
10月15日(金) | 創世記38章1〜30節 |
10月16日(土) | 創世記39章1〜23節 |
10月17日(日) | 詩篇76篇1〜12節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
私にとってイエスは誰なのか
マタイによる福音書11章2〜19節
イエス・キリストが宣教を開始される前に先駆者が登場します。バプテスマのヨハネです。彼は、イザヤ書で預言された「荒野で叫ぶ声」の役割が与えられていました。
ヨハネは、街中で住むのではなく、荒野で野蜜などを食べて生活(世に染まらず)しました。彼のメッセージは「悔い改め」です。腐敗した形だけの宗教、律法厳守、特に当時のガリラヤの国王「ヘロデ・アンティパス」の逆鱗に触れて投獄されていました。イエスは、ヨハネを「預言者よりもすぐれた者・・・女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。」と評しています。
ヨハネは何を宣べたのでしょうか。「悔い改め」です。罪の中に生まれたすべての人にとって一番大事なことであり、信仰は悔い改めから始まるからです。
悔い改めは、時には罪を責めることから始まります。そのために、一部のパリサイ派の人から民に至るまでヨハネのバプテスマを求めました。また、逆に敵対する者も多数いたのです。耳の痛いメッセージです。
マタイによる福音書11章12節でイエスは、「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」
「天の御国」はイエスのメッセージのテーマです。その天の御国が激しく攻められている、また攻める人たちがそれを奪い取っている、とあります。
天の御国を激しく攻め、奪い取っているのは、当時の宗教指導者たち、ユダヤ教パリサイ派、律法を教え、守るようにメッセージする学者たちです。ちょうどバーゲンセールに群がる買い物客のようです。
イエスも「この時代」のことを、メシヤを否定する人たち、「広場に座って、他の子供たちにこう呼びかける子供たちのようです。(マタイによる福音書11章16節)
当時、街の広場で子供たちが結婚式ごっこ、葬式ごっこをして遊んでしました。結婚式では笛を吹いて祝福しました。葬式では胸を叩いて悲しみました。しかし、宗教指導者たちは反応、ヨハネのメッセージに対して悔い改めませんでした。むしろ、否定したのです。
ヨハネが、食べも飲みもしないでいると、断食を指しているのか、あるいは世の食事を食べないでいると、この人は悪霊につかれていると切り捨て、人の子(メシヤ)が来て、食べたり飲んだりしていると「見ろ、大食いの大酒飲み、酒税人や罪人の仲間だ」と揶揄したのです。
彼らは、イエスにも、笛を吹いて踊らせようとしています。その意味は、イエスを自分たちの価値観で評価し、自分の思い通りに動かそうとするのです。それは、イエスを自分の願望のために利用する行為です。
イエスに従うのか、イエスを利用しているのかは、容易に判別することができます。それは、イエスを信じ従う者は、その生活や行動に変化が起こるからです。「知恵は正しいことはその行いが証明します。」(マタイによる福音書11章19節)
ヤコブ書2章14節で、「私の兄弟たち。だれかが自分に信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の訳に立つでしょうか・・・。」の意味です。
イエスを信じることは、その人は新しく生まれたのです。律法による聖化は、ヨハネの時までです。「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。」(マタイによる福音書11章13節)
今は「恵みの時、救いの日です。」私たちは、新しい基礎に自分のすべてを置いたのです。今までは、自分中心、自分が王様でした。その時は、イエスを自分の召使いのように利用していたのです。今は、主の吹かれる笛に踊りたいものです。このイエスが、私たちを招いておられます。「わたしのもとに来なさい。」