もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙第一1章7節
敬拝
- 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
- 祈り
- 勧め 「父なる神の心」詩篇22篇1〜5節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 県の緊急事態宣言が続いています。会堂での礼拝は午前7時と10時にありますが、配信を受信できる方はお家で共に礼拝してくだされば幸いです。受信できない方は、日頃の注意と共に、密にならないように間隔をあけてお座りください。
- 献金される方は下記に振り込むことが可能です。
沖縄海邦銀行 普天間支店 店番:042 口座番号:653969
単立 恵みバプテスト教会 - 教会の年間スケジュールが大幅に変わっています。特に集まって何かをすることを控えています。この状況でも守られ、主のみこころがされるよう求めます。
- 土曜日の聖書の学びはお休みします。
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
父なる神の心
詩篇22篇1〜5節
詩篇22篇、イエスの受難時の預言として、福音書で示されています。(マタイの福音書27章46節、マルコの福音書15章34節)
イエスは十字架上で語られた7つのことばがありますが、父なる神を「わが神、わが神」と呼ばれたのは聖書の中でただ一度であり、罪人を救うために人として、永遠なる方が時間の制約の中に入られ、霊なる方が肉体をとられる、まさに人として来られたイエスをあらわしています。それは人として生まれ、生涯を送られ、死なれようとしている、罪の罰を身代わりに受けられる目的のみこころを預言されています。
1、「どうして」
イエスは、父を呼び求めておられるのですが、「どうして」と「私(人としてのイエス)」をお見捨てになったのですが。「遠く離れて」と距離を取り、知らないふりをされるのですか。さも、父が沈黙されているような印象を受けます。
イエスは「私」というのはめずらしいことで、ほとんどは「わたし」(ヨハネの福音書14章1節)とし、主は「ことばなる神」であるとされています。
ですから「私」という時、人となられ、私と同じような人としての立場に立たれ人間イエスをみることができます。
どうして人となられたイエスは父に捨てられ、沈黙を守られるのでしょうか。
ローマ人への手紙3章23節「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず。」状態にあり、神の栄光を罪という壁が遮断しているのです。
私・・・一人の人間として
救わず・・・父が介入しない
遠く離れている・・・分離している
「わが神」と呼び求める前に「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください・・・」と取り去られることを切に願い、御子にとってこのことがどれだけ苦痛であるかを示し、祭司長たちも「他人を救ったが、通りすがり人たちは、「もしお前が神の子なら自分を救ってみろ、そして十字架から降りてこい。」(マタイの福音書27章40節)とイエスを罵っています。
全知全能の父が、愛する御子の苦しみに距離を置き、沈黙していることがいかに大変なことかを見ます。
「どうして」イエスが苦しんでおられるのか。父がすべての罪人の罰を御子に負わせておられるのです。罵っている民の罪も・・・。
2、「うめきのことば」
「うめき」というのは単にウーウーと言葉にならないというのではなく、切なる願いを言います。(使徒7章34節等)
イエスのうめきの内容は何でしょうか。父よと呼びかけられた時のうめきは、杯を取り去る、この苦しみからの解放を求めておられるのですが、「わが神よ」呼びかけられている時は、罪の苦しみは極度に達し、永遠の滅びをもたらすものであることを自身で示しておられます。神は、この状態にある者を救いたいのです。
3、信頼する
父は、聖い、主権者、賛美を受けられる唯一のふさわしい方です。いつまでも変わることのない創造主です。
私たちの先祖たちをどのように愛し導いたかを知っています。ヘブル書11章に信仰によって生きた人々が証しています。ヘブル書12章1節で「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いて・・・」結果、「恥を見ることがない」失望することはないと約束されているのです。神に信頼する子供たちは「虫けら」ではなく、高価で尊い愛されているいのちです。