2021年8月1日

主は、すべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

詩篇121篇7〜8節

敬拝

  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「永遠のいのち」マルコによる福音書10章13〜16節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 7月18日から会堂での礼拝を再開していますが、本日から以下のように変更いたします。早朝礼拝、一般礼拝も配信を受信できる方はお家で同時間に礼拝してください。受信できない方(設備がなかったり、方法がわからない)は会堂での礼拝にご参加ください。
  • 教会の年間スケジュールが大幅に変わっています。特に集まって何かをすることを控えています。この状況でも守られ、主のみこころがされるよう求めます。
  • 一日も早く自由に賛美、礼拝できるようにお祈りください。皆様方に平安と祝福をお祈りします。
  • 聖書の学びは、火曜日15時と、土曜日11時からあります。ぜひご参加ください。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

「永遠のいのち、それはイエスに」

マルコによる福音書10章13〜15節

秦の始皇帝が部下に命じて探させたと言われる不死の薬は、人にとっての最高の希望でしょう。実は、イエスは私たちに永遠のいのちを与えるために来られました。イエスの十字架の死も、永遠のいのちを阻害している罪の罰を身代わりに受けられたためで、目的は永遠のいのちにあります。

イスラエルにとっても最大の関心事で、律法を守り、生きるのも、このためといえます。

人々が、子供を連れてイエスに祝福を求めました。この話は、共感福音書に出ています。子供が連れてこられる前は、民の質問に答えて結婚の話をされています。そして、この話の後で、律法の専門家が「永遠のいのちを受け継ぐためには何をしたらいいでしょう」と質問します。「受け継ぐ」というのは、律法の行いに生きていても、永遠のいのちを受け継ぐ(得ている)実感がなかったのです。パリサイ人のニコデモもそうでしょう。

子供の話は、主イエスは実に永遠のいのちの話をされたのです。それを獲得するためには「何をしたらいいのか」という自分の行い(能力)にベースを置くのではなく、神の恵みにある信仰と示されたのです。

さて、子供たちがイエスのもとに連れて来られた。とあります。子供たちは自分の意思で来た能登は違うようです。なぜ、人々はそうしたのでしょうか。それは、イエスが「神の人」の権威者であると受け入れ、信じたからです。イエスの働きのしるしは「神にしかできない」ことを信じたのです。神の人は、祝福の権威者です。

しかし、弟子たちは子供を連れてきたことを怒りました。

なぜでしょう。

1、子供の来るところではない。

2、子供に罪はない。

3、子供には理解できない。

4、自分で来たのではなく、親が連れてきている。親に権限があるから。

などの理由が考えられます。もし、立法を行うことが救い(罪のゆるし、霊肉とものいやし、悪い霊からの解放)につながるのなら、行うことができなかったら、文字通り資格がないということになります。行いなど、人の能力に祝福の基礎をおいているなら、不可能な人は初めから諦めなくてはなりません。

マルコの福音書10章14節で、イエスは逆に弟子たちに憤られた。この表現は、怒りよりも強烈です。「子供たちを、わたしのところに連れて来なさい。」

弟子たちが受け入れられないと考えた子供も、神は受け入れることを示されました。主は人に受け入れられなかった(十字架)父なる神に受け入れられたみこころです。

「邪魔をしてはいけない」

人は、どこかでこのような人に資格がないと判断しています。

「神の国はこのような(子供たち)のものです。」

1、子供は親を絶対的に信頼している。無条件で信頼している。

2、ある意味、親なしでは生きていけない。

動物は、生まれた時に本能的にすぐ立とうとします。それは、自分の力で生きていく必要があるからです。

人は、約一年間、立って歩くことはできません。それは、親の保護を必要としていることを表しています。幼児と同じように、人は創造主なる親が必要です。それは、誕生から人生まで神の働きが必要なのです。神なしで生きていくように造られていないからです。それは、神の御国、永遠のいのちまでです。

3福音書では、この話の前後の人々の様子が記されています。民の興味は、律法問題です。結婚と離婚の是非について質問していました。弟子たちは、弟子たちの中で誰が一番偉いか。出世競争をしていました。子供は親に仕えるように、神を主とし仕えることがいかに大切かを、主は教えられました。