2021年7月11日

それからイエスは、弟子たちをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。

ルカによる福音書24章50〜52節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「ヨセフにみる神の祝福」創世記50章20節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 緊急事態宣言が延長されましたが、来週7月18日から会堂での早朝礼拝、一般礼拝を再開します。信徒が神を礼拝し互いに交わりを持つことは力であり、感謝、喜びです。各自それぞれ感染対策をそのまま続けていただきながらの礼拝、交わりとなります。
  • 聖書の学びは、火曜日15時と、土曜日11時からあります。ぜひご参加ください。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

メッセージ

「ヨセフにみる神の祝福」

ヘブル書11章21〜22節

 「祝福」それは出発(スタート)の時に用います。夫婦に子供が与えられた時、新しいいのち、結婚した時、新しい家庭。聖書には、祝福と言う言葉が数多く出てきます。

神が人を創造された時に祝福を与えられました(創世記1章22節)。あるいは人は神に祝福されるために生まれたとも言えます。

ノアの時代、世界は洪水によって滅ぼされ、ノアとその家族だけが生き残り、救われた彼らを神は祝福しました(創世記9章1節)。新しい時代の幕開けです。

やがて偶像礼拝が蔓延する時代、民の中からアブラムを召し、神は彼を祝福しました(創世記12章2節)。彼は信仰の父として、信仰の人の始まりでもあります。人はアブラハムに習うものとして神は示されました。

ヤコブからイスラエルの民が選民として起こされ、神は祝福しています(創世記22章18節)。

新約時代にあっても、主イエスは5000人の給食の奇跡の時、先ず祝福しています。神によって養われる子供たちのスタートです。「いのちのパン」である主イエスの恵にみによる祝福です。では、祝福されるとは何でしょうか。

ヤコブの子ヨセフにみたいと思います。彼の生涯は波瀾万丈です。でも考えてみれば、すべての人の人生は「山あり、谷あり、想定外のことが次々と起こる」生涯かもしれません。でも、みことばは言います。「私は祝福されるために生まれてきた」と。どうして、そう言えるのか。苦しい、哀しい、辛いことが多すぎではないのか。それでもどうして祝福されていると言えるのか。それは、私を生んだのは全能の神だからです。テレビの番組で、ある医師が「私は失敗しないので」という台詞を使いましたが、全能の創造主は失敗することはなく、神に太鼓判を押されて世に生を受けたのです。

ヨセフはヤコブの愛する妻「ラケル」の子です。父ヤコブはヨセフを溺愛しました。他の兄弟たちは嫉妬します。ヨセフは兄弟たちから怒りと妬みを向けられるのは、父ヤコブに原因がありました。ただ、ヨセフはそのことを理解していませんでした。妬みがどれほど恐ろしい結果を生むのかを父ヤコブにも分からなかったようです。ですから、羊の番をしていた兄弟たちに弁当を届けさせます。兄弟たちにとって、父から離れて自分たちの所に来たヨセフに日頃の怒りをぶつける絶好のチャンスが来たのです。ヨセフは兄弟たちに捕まり、穴に放り込まれます。そのままでは死にます。さすがに殺そうとしたのではなく、穴から出して奴隷として売ります。ヨセフは、イエス様の型です。裏切られ売られることも、その1つです。エジプトでは「ポティファル」という主人に仕えました。彼は良き主人でしたが、妻によって濡れ衣を着せられ牢屋に入れられます。

これも主と似ています。主は私たちの罪を身代わりに負われました。牢獄では何度か解放の機会がありましたが、なぜか解放されませんでした。物事がうまくいかないことの表れかもしれません。ヘブル書11章には「信仰によって歩んだ人たち」の証言が出ています。ヨセフの信仰はただ一節「・・・臨終の時に、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骸について指示を与えました」(ヘブル書11章22節)とあります。ヨセフの「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル書11章1節)とは「天の御国」です。ヨセフは子供たちに、自分が死んだら、遺体を約束の地に連れて帰るように、との遺言を残したのです。獄中では不自由でしたが、実は平安でした。「神がともにあったから」です。パウロとシラスがピリピで牢につながれたときも、牢の中にいた彼らは平安と喜びで賛美に満たされていました。外にいた看守の方に恐れがありました。飢饉です。飢饉は、イスラエルだけでなくエジプトも例外ではなりません。しかしヨセフに何があったのでしょうか。みことばです。