目が見たことのないもの、耳が聞いたことないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった。
コリント人への手紙第一2章9節
敬拝
- 黙想 静かに礼拝に備えます
- 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
- 祈り
- 勧め 「赦されない罪」マルコによる福音書3章28〜29節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 緊急事態宣言が延長され2021年7月11までになりました。会堂での礼拝もお休みし、再開は7月18日からとします。兄弟姉妹が霊肉ともに守られますようにお祈りいたします。
- 緊急事態宣言が予定よりも早く解除になった場合は、会堂での礼拝も早く再開いたします。沖縄県内の状況が一日も早く回復するように。
- 今週(6月27日〜7月3日)の聖書の学びはお休みします。
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
「赦されない罪」
マルコによる福音書3章28〜29節
聖書には一見矛盾するようなみことばがあります。本日の箇所はその1つです。「人の子ら」という呼び名は、人間をあらわしています。「どんな罪も赦していただくこと」ができますが、それは「神を冒涜すること」を言っても赦されます。しかし(ただし)、聖霊を冒涜する罪は、だれも(例外なしに)永遠に(どこまでも)赦されないことがあります。
「冒涜する」ということばは、神に対することばです。人に対するものではありません。ただし、人は神の作品ですから、人を冒涜することは作者である神を冒涜することに繋がることかもしれませんが。
「神を冒涜する」で考えられるのは、イエスのローマ総督や祭祀長の前での裁判や、カルバリに引かれていかれる時の兵士、あるいは見物人たちの態度にありますが、十字架に架かった一人の強盗の言葉も最もたるものの1つかもしれません。
「どんな罪でも赦される」と説明すると、ある方が、考えられるいわゆる悪い人を引き合いに出して「殺人者でも」と否定するようにと言われるほどです。私たちはどこかで「私はそんなに悪くはない」と考えているかもしれません。
主イエスがこのメッセージをされた背景は、人々はその働きが、悪霊によるものだとの認識からでした。確かに、病のいやし、悪霊の追い出しは、人々の常識を超えていたのです。「エルサレムから下ってきた律法学者」というのは、当時の祭司たちは、もしかしたらイエスは預言されたメシヤ(救い主)かもしれない事を確認するために遣わされたのです。ただ彼らは受け入れるよりも、否定するため、初めから退けるという答えを持ってきていました。それは、イエスの身内も同じでした。ユダヤ社会、コミュニティから追い出される恐れがあったからです。
主イエスは、内部分裂、それはサタンでもしない。なぜ立ち行かなくなり滅んでしまいます。
また、この働き霊的戦いであると。それは骨肉に対するものではなく、闇の支配者に対するものです。まして、悪霊が悪霊を縛ったり略奪したりしないと。しかし、赦されない罪があります。それも永遠に、いつまでもです。それが「聖霊を冒涜する罪」です。
では、聖霊を冒涜するとはどういう意味でしょうか。それは、その働きを否定する事です。「聖霊の油注ぎ」というみことばがありますが、「油」は「あわれみ」と同じ根から発したみことばです。聖霊の働きは、人の子に対するあわれみと言えます。
聖霊は、聖書では天地創造から始まり(詩篇33篇6〜7節)、主イエスも導かれて歩んでおられます。ですから、聖書には「聖霊によらなければ」というみことばが数多く示しているとりなし手と言えます。
「とりなし」の意味は「架け橋」とも取れます。天の神に、御子イエスの血によって、人の子である私たちを取りなして、いのちに接続してくださるのです。
1、新生のとりなし手 ー ヨハネによる福音書3章で、主はニコデモに「人は新しく生まれなければ神の国をみることはできない」、新しく生まれるのは「水と聖霊」によると。水はいのちのことばイエスであり、御霊は「聖霊のとりなし」を示しています。「イエスは私の主」と告白できるのは、聖霊のとりなしによるのです。
2、人生の同伴者 ー ヨハネによる福音書14章17節
それは、世の終わりまで「共におられ」「うちにおられる」のです。パラリンピックでのマラソンランナーは、まだ見ていないゴールに向かって「伴走者」と紐でつながれて走ります。聖霊は新生のあと、御国に至るまで共に走ってくださいます。
三位一体の第三位格であられる聖霊は、たくさんの呼び名を持っておられます。聖霊、御霊、助け主・・・などです。そして「パラクレトス(そばに呼ばれた者)」があります。決して孤児とはされていません。
3、力の与え主 ー コリント人への手紙第一2章4〜5節
それは「御霊と御力の現れ」です。「聖霊に対する冒涜する罪」とは、そのとりなしを否定する、受け入れないことです。それは「イエスを救い主として信じない」ことですから、自分で犯した罪の咎を自分で負わなければならないので、赦されないと言えます。