2021年5月2日

主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

申命記31章8節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「恵みによる信仰に生かされる」ローマ人への手紙3章23〜24節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 来週(2021年5月9日)はビジョン会です。
  • 会堂の外壁工事が始まっています。危険ですので足場には触れないようにお願いします。また駐車場も狭くなっていますので、お互いに配慮しましょう。
  • ウィークデーの聖書の学びもあります。火曜日午後3時からと、土曜日午前11時からです。個人的な学びもあります。特に三密に気をつけて座席を確保してください。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

5月2日(日)7:00早朝礼拝
 10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
  教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
5月4日(火)15:00聖書の学び
5月5日(水)20:00聖書の学びと祈り会(使徒の働き)
5月8日(土)11:00聖書の学び(マタイによる福音書)

 

メッセージ

「恵みによる信仰に生かされる」

ローマ人への手紙3章23〜24節

 一昨年、私は人間ドックを受けました。数日経ってから結果が出たのでお越しください、と言われました。当日医師は数字が記されている一枚の紙を示しながら、この数字は・・・と説明しました。

私が期待する言葉は「大丈夫です。安心してください。何の問題もありません。」です。しかし、この時は違っていました。「胃にポリープがあります。一度検査をします。」でした。結果は切除でした。

聖書にも、人には聞きたくない現実が記されています。なぜ「あなたは罪人です」と言うのでしょうか。

1、実は自分が罪人だと知ることが「救いの入り口」だからです。

マタイによる福音書9章で、取税人マタイにイエスが「わたしについて来なさい」と招かれ弟子とされました。彼はイエスを主とし自分の家に招き食事会をしています。そこに大勢の取税人仲間が集まっていたので、パリサイ派の人たちが非難しました。当時取税人は罪人であり、付き合いをしなかったからです。

これを知ってイエスは「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です。・・・正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのです。」と。

私たちは考えます。病人なら病院に、罪人なら刑務所にいますと。それは「自分は罪人でも病人でもない」、助け、救いを必要としないという意味です。

しかし聖書は、すべての人は例外なく罪人であり、救われなければならないし、救いがあることも宣べているのです。

2、神は人をそのままで放って置けない

私が人間ドックを受けた理由の一つは、思い当たることがあったからです。それは、食後にえずくのです。どうしてか分からないので、この体のどこかに異常があるのではないかと思っていました。人間ドックの時に胃の検査をし、ピロリ菌があるため、そのせいではないかとの診断でした。

時々、病気をされた方が言われます。「もう少し発見が遅れていたら・・・」なぜ、遅れなかったのでしょうか。兆候、思い当たることがあったからです。本人が気付く場合も、周りの人が気付く場合もあります。「運が良かった」かもしれません。しかし、神を信じるということは運では片付けられません。

神は、たとえ罪人でも、苦しむのを放って置けないのです。「人は神の作品であり、私は神の子どもとされた」からです。何処の親でも、子供が苦しむのを放って置けないのです。

それは、神がそのひとり子のいのちを犠牲にされることもです。

3、信仰は恵みによる

マルコによる福音書16章で、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤとサロメはイエスに油を塗るために香料を持って墓に行きました。安息日が終わるのを待ちきれなくて、早朝です。姉妹たちは十字架の現場でイエスの死を確認しました。姉妹たちには遺体に油を塗るために超えられない現実がありました。

・墓には番人がいて止められる

・大きな石で塞がれ、姉妹たちの手に負えない

・イエスの弟子だとばれて捕らえられるかもしれない

・イエスの復活の預言(マタイによる福音書17章22〜23節)を信じていたわけでもない。姉妹たちは「復活の主」にお会いします。

すべての事は神がされたのです。番人はいませんでした。石が転がされていました。姉妹たちは遺体に油を塗る最初の目的は果たせず、聖霊の油注ぎを受けたのです。

聖書のすばらしさは、罪人が救われるためのすべての行いは神がされたのです。十字架の刑も、閉じ込められている石を転がし解放することも、・・・。私がなすべきことはただ一つ、神がされたことを「信じる」だけです。