全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ、主こそ神、主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。
詩篇100篇1〜3節
敬拝
- 黙想 静かに礼拝に備えます
- 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
- 祈り
- 勧め 「十字架の道」マタイによる福音書26章39節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 会堂での教会の礼拝をお休みします。一週間は礼拝で始まり信徒の特権でもあり、集まりでもあります。しかし、情勢を鑑み、配信とします。来週に関しては、今週お知らせします。
- みことばに「時が良くても悪くても」とありますが、主の時に悪い時はありません。このような中でも守られ、共に集まれる日が来ることを願い祈りましょう。
- 2021年4月ビジョン会は中止します。
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
今週の予定
礼拝、祈り会、聖書の学びはお休みです。
メッセージ
「ゲッセマネからカルバリへ」
マタイによる福音書26章39節
聖書は契約の書です。古い契約は神がイスラエルの民を通してすべての人を救うビジョンでした。新しい契約は、神が御子を仲介とした恵みの契約です。
契約には約款があります。そこには契約者双方の義務や責任、なすべきことが記されています。最近は印鑑が不要になりつつありますが、契約の了承を意味して捺印されていました。印影は朱肉です。この「朱」は血を意味し、いのちがけで守るという決断の証だと言われています。
聖書には福音書という「イエスの言行」が記されていますが、ゲッセマネからカルバリに至る物語が頁数を占めています。「まことに、まことに・・・」創造主が人に知って欲しいことだと理解できます。
イエスは十字架に架かられる前に「ゲッセマネの園」で祈られました。葡萄の実が搾られていた場所です。オリーブ山からエルサレムに至る谷底に位置していました。
1、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」マタイによる福音書26章39節
ゲッセマネでの主の祈りです。それは苦悩の祈りと言えます。「杯」は契約を意味します。我が国では結婚式に「杯を交わす」ことをしますが、それは結婚が契約であり、その契りを結ぶ意味があったのでしょう。中身は何が入っていたのか記されていません。
主は「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と父に祈っています。杯を受けたくない、スルーしてくださいと願っています。
十字架は不平等契約です。恵みの契約ですが、一方の当事者、神の側にすべての履行の責任が負わされているからです。なぜ、イエスはスルーされたかったのでしょうか。
十字架なしで、神の主権で救いが示されて欲しいと願ったのでしょうか。あまりにも苦しいので、苦しみから解放して欲しいと願ったのでしょうか。否。そうではなく、イエスは人として身代わりにその罪を負って死なれるということは、父なる神とのいのちの関係が遮断することにあります。ゲッセマネからの祈りは『父』に向けられています。「父よ」と何度も呼びかけられています。しかし一度だけ「わが神。わが神」と人間として死なれる立場をとっておられるのです。
人は、恵によって信じるだけで救われますが、「たったそれだけ?」とか「ただより高いものはない」などと言いますが、恵みは全能なる神のいのちの犠牲が用いられているのです。
しかし、主は「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるように」と。
2、次の祈りは、十字架の上での最初の祈りです。ルカによる福音書23章34節
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかがわかっていないのです。」
何が分かっていないのでしょうか。それは、誰がイエスを処刑しているのかです。ユダヤの指導者?イスラエルの民?ローマの地方総督?兵士?・・・彼らの裁判で有罪判決を受け、処刑されようとしていますが、実は私の罪がイエスを十字架につけ、父なる神に裁かれているのです。これが身代わりの意味です。イザヤ書53章4〜11節
3、次は御使いのことばです。ルカによる福音書24章5〜6節
週の初めの日の朝、女性たちは納められた遺体に香油を塗るために墓に行きます。すでに墓石は転がされ御使いが座っていました。この時「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に探すのですが。ここにはおられません。よみがえられたのです。」私たちにとってのなくならない希望です。