2021年3月7日

神は、私たちのたましいを、いのちのうちに保ち、私たちの足を揺るがされない。

詩篇66篇9節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「ユーアンゲリオンのたとえ話」ルカの福音書19章10節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 県の緊急事態宣言が終了し、会堂での集まりを再開します。感染予防対策を取りながらの集まりです。守られるようにお祈りください。
  • 2021年3月14日は3月ビジョン会です。
  • 長嶺姉のご主人が召されました。召天式は2021年3月8日家族葬となります。残されたご家族に天の慰めを祈ります。
  • ウィークデーの聖書の学びは再開されています。火曜日15:00、水曜日20:00、土曜日11:00にあります。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

3月7日(日)7:00早朝礼拝
 10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
  教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
3月9日(火)15:00聖書の学び
3月10日(水)20:00聖書の学びと祈り会(使徒の働き)
3月13日(土)11:00聖書の学び(マタイによる福音書)

 

メッセージ

「人の子のたとえ話」

ルカによる福音書19章10節

聖書には多くのたとえ話があります。主イエスのたとえ話だけで30くらいあると言われています。その目的は、見たことのない神の国を例えで教えておられるのです。聖書は学びを理解するとき、その「たとえ(型)」を知ることが大切です。

1、聖書は聖書で理解、解釈する

世界的にも歴史的にも、神の啓示が記されたものは「聖書」しかありません。例えば、外国にいる子供のために手紙が書けるのは親だけです。創造主だけが人に手紙を書くことができます。子供が勝手に、自分の親ならこういう手紙を書くだろうと想像して書くことはできないのです。聖書以外に聖書はありません。ですから、解釈も聖書を用いるのです。

マタイによる福音書13章には「イエスは彼らに、多くのことをたとえで話された」とあり、「見よ」で「種まきの話」をされます。それは、物事をただしく見、聞き、そこからそこから悟りを得るためです。

「種蒔く人が種まきに出かけた」とあり「種蒔く人」とは誰のことを言っているのかというと、それは「人の子」(マタイによる福音書13章37節)と明らかにしています。種蒔く人とは農作業者の話です。それは多くの収穫を得るための仕事です。それも、種が落ち、土が被せられ、水、雨が降り・・・多くの時間を経て、何十倍の実を得る始まりです。主イエスは、最初の「一粒が地に落ちる」ことを、ご自身の十字架の死に例えられています。よく見れば、地球上どこででも目にする光景であり自然と言えます。

もちろん常識では考えられないこともいっぱいあります。例えば「太陽を着た女」(黙示録12章1節)やヒノムの谷では骨に肉がつき生き返る様子(エゼキエル書37章)もそうです。これは、約束の地から世界離散したイスラエルの民が国土を再建する話で、終わりの時の印として描かれています。

「畑」は世界で「良い種を蒔く人は人の子」で、「良い種は御国の子ら」信仰によって神の子供とされた人を言います。

「人の子」は、聖書では「神に仕える者」であり旧約聖書では「預言者たち」です。

そして、人に仕える(身代わりに死なれる)ためにこられたイエス・キリストが示されています。

2、例えの特徴の2番目は、その物語の前に「教え」があります。例えばイエスは「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」(ヨハネによる福音書9章5節)と仰せられた後、「生まれつき盲人の開眼」のしるしをされます。イエスという光がなければ霊的(心)な目が開かれないと言われたのです。

現在では、聖書が目が開かれるための光です。聖書がなければ「世界の始まり」や「人間とは何か」とか「死後の世界の存在」・・・などがわかりません。詩篇119篇105節に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と。それはみことばは足元を照らし、目的地を指し示しています。また「みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者を悟りを与えます。」(詩篇119篇130節)

サタンの支配は、世を暗闇化し、人々の目を罪で被い見えなくしています。その暗闇にイエスという光が差し込んだのです。「盲人は盲人を手引きすることはできない」と全ての人は霊的盲人で、イエスという光が必要なのです。

「闇の中に住んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(マタイによる福音書4章16節)

3、神の愛は親が子供を愛する愛に似ている

ここで私は一つのたとえ話をします。数年前に私はテレビの番組を観ていました。そんなに鮮明に覚えていないので少し違う可能性があることをお許しください。

一人の男性がドキュメンタリー番組を観ていました。それはフランスのパリの裏町にいる人々の人生模様を追っていました。パリには世界中から芸術家の卵がやってきます。しかし、成功することなく彷徨っている青年たちが大勢います。番組を観ていた男性が一人の青年に釘付けになります。長年わからなかった息子の姿を見つけたのです。