2021年1月24日

しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

ルカによる福音書10章20節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「放蕩息子の兄」ルカによる福音書15章25〜32節
  • 献金
  • 報告
  • 頌栄
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 県の緊急事態宣言を受け、宣言が出ている期間(〜2021年2月7日)は教会での礼拝をお休みします。この間、10時からの礼拝をインターネットで生配信する予定です。初めてのことでわからないこともありますが、家庭において同時間に礼拝できるようにと願っています。またインターネットをご覧いただけない兄弟姉妹の皆様にはCDを送らせていただきます。
  • この状況がいつまで続くかは定かではありませんが、主の平安と守りをお祈りいたします。
  • 献金は振り込むことができます。
    沖縄海邦銀行 普天間支店 店番:042 口座番号:653969
    名義:単立恵みバプテスト教会

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

礼拝、祈り会、聖書の学びはお休みです。

メッセージ

「放蕩息子の兄」

ルカによる福音書15章25〜32節

ルカの福音書15章は、なくなったものが回復する様子が記されています。「一匹の羊」「一枚の銀貨」「ある人の息子たち」です。最後の兄弟のうち、弟が父の財産のうち「自分の受ける分」、おそらく半分を欲しいと願います。弟は財産を手に入れ「遠い国」に旅立ちます。遠い国は父の影響が届かない場所と考えました。

兄はどうでしょうか。兄は弟が財産を手にして家を出ていくのをどのように見ていたでしょうか。もしかしたら、自分もそうしたいと思ったかもしれません。しかし兄はできませんでした。家業に対する重荷と老いていく父をそのままにしておけなかったかもしれません。この物語に母は出てきません。もしかしたらこの家と父を支えるのは自分だけと考え父親を助けたかったのかもしれません。

ルカの福音書15章30節の「遊女と一緒にお父さんの財産を食い潰している」は兄の思い込みが、風の便りに聞いたのかもしれませんが、その弟がおめおめと帰宅し、よりによって父親は、そのまま喜んで受け入れてしまっていたのです。それも、自分が畑で働いている最中に宴会が行われていたのです。自分への断りも相談もなしに。

私が子供の頃母親が瓦工場で働いていましたが、私もアルバイトでその工場で粘土の足踏みをしていました。冷たい粘土を裸足で踏みこねるのです。そこには同級生の男子がいて、近くで楽しそうに遊んでいました。大変羨ましかったのを覚えています。

兄は、弟に対して不公平だと怒りました。弟が帰ってきた時、畑にいる自分には報せもせず呼びにも来ず、仕事を終えて帰宅した時にすでに宴会をしていたのです。その父の対応を見て兄の怒りが爆発しました。父は帰ってきた兄をなだめようとしていますが、兄は「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことも一度もありません。その私には、友達と楽しむようにと子やぎ一匹下さったこともありません。」

兄の言い分は最もです。私も兄の意見に同調します。父は間違っている、アンフェアです。父はなぜ兄に最初に知らせなかったのでしょうか。また宴会を兄の帰るまで待てなかったのでしょうか。

この理由を兄弟の父の呼び方に答えを見つけます。

1、兄は父にキレていますが「・・・私はお父さんにお仕えし・・・」とお父さんと呼んでいます。弟はどうでしょうか。弟はどうでしょうか。財産を使い果たした時「我に返って(悔い改めて)『父のところには』」と呼んでいますが、21節で「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう息子と呼ばれる資格はありません。」父を「あなた」と呼んでいます。父と子の関係が切れてしまっていることを受け入れています。

2、父は一貫して兄弟とも「子」と呼んでいます。弟にとっての放蕩が父との関係を失ってしまいました。迷子の羊や失った銀貨と同じです。

弟はその反抗を「天に対して」といっていますが、これはアダムの原罪を指し、実際には「父に対して」罪を犯した。それは父との断絶を意味します。ですから、「子と呼ばれる資格がない」と。確かに罪は関係を遮断してしまいます。しかし悔い改めて帰ってくる息子をそのまま受け入れたのです。それほど父の喜びはすごかったのです。

3、「子」それは家族の回復です。ヨハネによる福音書1章12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供となる特権をお与えになった」と。神の恵みは「資格のない者に与えられる神の愛」を言います。弟だけでなく私も充分罪人です。この恵みによって、罪人がイエスを信じるだけで救われるのです。弟の「ふさわしくない」はわかりますが、実は兄もふさわしくないことを露呈しています。父の喜びを非難しているのです。