主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
民数記6章24〜26節
敬拝
- 黙想 静かに礼拝に備えます
- 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
- 祈り
- 勧め 「人とは・・・」テサロニケの手紙第一5章23節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 来週、2020年9月13日(日)から会堂での礼拝を再開します。午前7時からの早朝礼拝、午前10時からの礼拝です。
- 聖書の学びも再開しますので、時間のゆるされる方はご参加ください。
- 会堂での集まりには、マスク着用や三密を避けるよう望みます。何分、神の恵みと助け、守りがあるようにお祈りいたします。
祈りの課題
新型コロナウイルスの影響が収束しますように。
また教会の兄弟姉妹が災いから守られ恵みと平安があるようにお祈りいたします。
メッセージ
「人とは・・・」
テサロニケの手紙第一5章23節
「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、魂、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれますように。」
この世の知識では分からない神の知恵が聖書には多く示されています。天地創造から、紅海渡行、死人のよみがえり、天からのマナ・・・などがありますが、今日は「人」の形成についてから始めます。この世では、人は「霊魂(心)と身体(肉体)」の2つの部分を指しますが、聖書は3つ「霊・魂・からだ」とあります。日本語ではくっつけて「霊魂」と呼び、「霊」と「魂」は分けていません。英語でも霊は「スピリッツ」魂は「ソウル」と呼び、違いはあまりなく区別しないようです。しかしギリシャ語では明らかに3つに分け、霊は「プニューマ」、魂は「プシュケー」、からだは「サルクス」となっています。霊と魂の違いは、霊は「神との関係」の部分であり、魂は「生存の関係」にあります。アダムとエバは罪を犯したら、神は「必ず死ぬ」と警告しましたが、善服の知識の身を取って食べても死にませんでした。むしろ子供たちが与えられ、アダムの障害は930年でした。
聖書で「死」とは「サナトス」と言い、「分離」を意味します。人の罪は霊と魂をみことばによって刺し通され分けられてしまったのです。この時から、人は魂で生きるようになり、自分中心、自分の能力で生活してきました。ですから「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解する事が出来ないのです。」(コリント人への手紙第一2章14節)アダムは神とのいのちの分離を経験し、やがて身体の死も避けられなくなりました。
では「魂」とは何かというと、「知識・感情・意思」です。これらは「心」とも言いますが、みことばではなく良心に従って生きています。ただ良心は状況(例えば戦時中)次第で変化する可能性があります。この魂を聖書では「肉」と表現しています。主はルカによる福音書9章23節で「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。」と招かれました。「わたしについて来なさいと思う」とは、イエスの弟子になる事ですが、「自分を捨て」とは、魂(肉の行い・ガリラヤ人への手紙5章16〜21節)だけで生きるのではなく、「十字架を負い」、イエスのしは罪の赦し、聖霊の働きによって、赦されて生きなさい、主の十字架を自分のものとして、キリストと共に「くびき」を負ってという意味があります。
罪を犯すと・・・
・エペソ人への手紙4章18節:知性(魂)において命の光が届かず暗くなり
・ガラテヤ書5章16〜21節:肉の行いに生き
・エペソ人への手紙2章12節:キリストから遠く離れた状態
テサロニケへの手紙第一5章23節の「平和の神」というのは、罪を犯し神と敵対し、神の怒りが留まっていた私たちが、キリストの十字架の贖いによって「和解」が成立したのです。
霊が神のみもとに回復した私たちが、「主は御霊」化した「魂」が用いられ、いのちの歩みがスタートしたのです。パウロは以前の良心ではなく、聖霊に導かれた「正しい良心」と証しています。
賛美歌は魂で歌う事ができますが、賛美は霊で歌います。内住してくださった聖霊によって神との関係が回復し、ただの電線に信仰というスイッチを入れると電気が流れるように(多分交流)神とのいのちの関係が回復し、永遠のいのち、神の家族とされ、魂もふさわしいものに整えられています。また肉の身体は原罪のゆえに滅んでも、イエスの復活のからだが与えられ、インマヌエルです。