2020年5月3日


いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。
イザヤ書57章15節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 祈り
  • 勧め 「幸いなるかな」マタイによる福音書5章1〜10節
  • 報告
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 現在、教会での礼拝はお休みしています。そして来週10日もお休みします。
  • 中城礼拝は10時からインターネットで配信しています。機材のある方はお聞きください。
  • 世界中の、そして仕事や学業で内地にいる兄姉が守られるように祈りましょう。またすべての病の方にいやしがあるように。
  • 新型コロナウイルスの影響が制せられるように心からお祈りいたします。
  • 献金をされる方は振込ができます。
    沖縄海邦銀行 普天間支店
    店番:042
    口座番号:653969
    普通
    名義:単立恵みバプテスト教会

今週の予定

すべて休止です。

メッセージ

「幸いなるかな(8戒)」マタイによる福音書5章1〜10節

イエスが30歳になられた時から、ご自身が旧約に預言された救い主(メシヤ)であられることを示し始められました。ガリラヤのナザレで育たれたイエスはガリラヤで漁をしていた漁師たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と招かれました。彼らはすぐに網を捨ててイエスのことばに従ったと記されています。この時からイエスは会堂で「神の国」を宣べ伝え、みもとに来る大勢の群衆のあらゆる病をいやされたと記されています。それは「すべて」であって軽いものから重篤なものまで同じようにいやされ、悪霊につかれた人が悪い霊から解放されました。イエスのこのようなうわさは瞬く間にガリラヤに留まらず、ヨルダン川の向こう岸(東側)からも集って来たのです。

5章1節には、イエスはこの群衆を見て山に登り、そこに腰を下ろし「新しい戒め」山上の垂訓と呼ばれるものを語られました。「山に登り」という表現はモーセの時と似ています。モーセは「十戒」を受けるためにシナイ山に一人で登りました。イエスの時は、山に登られたことは同じですが、一人ではなく弟子たちが従って登って行きました。「腰を下ろす」というのは当時のラビが民衆に語るのと同じ姿勢です。大きな違いは、イエスは「恵の八戒」を語られています。弟子というのは、イエスに病をいやされたというだけでなく、また信じたというだけでもなく、「イエスを主として従う者」です。イエスはマタイ28章19〜20節で「弟子としなさい」と命じられました。

ですから、この八戒は「弟子たち」へのことばです(マタイ5章2節)。ここでイエスは「八つの幸い」を語られました。文語訳聖書では「幸いなるかな」という幸いから始まっています。この幸いというのは、ヘブル語で「アシュレイ」「喜び」という意味もあります。幸いとは神に喜ばれていることとすることも可能です。このアシュレイは動詞がなく名詞そのものです。それは獲得する行為ではなく、与えられる恵みの賜物です。それは、イエスを信じる者はヨハネ1章12節で「神の子どもとされる特権」と言い、夫婦に子どもが生まれた時、子ども自身が頑張って子どもになる、あるいはされるのではなく、「子どもとして生まれる」そのままで子どもであり、家族であり、両親に愛される存在と言えます。新しく生まれるという新生も、子どもになろうと努力することによってではなく、神の家に生まれたことだけで十分なのです。身分、立場を言います。

5章3節からは、八つの幸いが出てきます。

まず「心の貧しい者」です。この世では「心豊かな人は幸い」ですが、主は心の貧しい者と仰せられました。「貧しい」は「空っぽ」という意味で私の財布の中のようです。それは「与えられることを待ち望んでいる状態」を意味します。私たちは心の貧しい状態から抜け出すために、多くの犠牲を払います。神のいのち以外のもので満たそうとするのです。例話としては、ルカ12章18節の農夫に例えられます。畑が豊作で一生分の生活の保障が得られます。納めきれないので蔵を建て増そうと考えています。農夫は「そして、自分のたましいにこう言おう。わがたましいよ。これから先何年分もいっぱいものが貯められた。さあ休め、食べ、飲んで、楽しめ」収穫が心を満たしたことです。実は心は霊的です。ですから「神以外に満たすことはできない」のです。それも限界がありこの世のものはこの世でしか通用しない。神にたましいが取られたら何の役にも立たない。永遠の準備が整うことが心が満たされることであり、神の賜物を待ち望む「空っぽ」が大切です。それは「空っぽ」を受け入れること自体が「悔い改め」です。悔い改めは人生のパラダイムシフト的です。「休んで、飲んで、楽しむ」ことは決して悪ではありません。自分の手で、手柄で勝ち得たと思っている所に課題があるのです。「主にあって」にシフトする人生、生き方、価値観、目的、希望・・・これらを主に在って生かされる歩みです。