それからイエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」
マルコによる福音書16章15節
敬拝
- 賛美 主のご栄光をほめたたえます
- 祈り
- 勧め 「とりなしの武器」マタイによる福音書8章5〜13節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 緊急事態宣言が解除され、日常の生活が戻りつつありますが、続けて対策が必要です。集まりにおいても、制約がありますが、行事を再開できますようにお祈りします。
ディボーションノート「水路のそば」
10月18日(月) | 創世記40章1〜23節 |
10月19日(火) | 創世記41章1〜36節 |
10月20日(水) | 創世記41章37〜57節 |
10月21日(木) | 創世記42章1〜38節 |
10月22日(金) | 創世記43章1〜34節 |
10月23日(土) | 創世記44章1〜34節 |
10月24日(日) | 詩篇77篇1〜20節 |
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
とりなしの武器
マタイによる福音書8章5〜13節
衆議院が解散し、選挙戦に突入しています。今回も各党が公約を発表していますが、その中で共通しているテーマがいくつかあります。その1つが「命と暮らしを守る」です。命は生存、暮らしは生活のことを指しているのでしょうが、聖書もやはり「いのちとくらし」のメッセージです。
聖書でいういのちは、単に肉体の活動ではなく、神のかたちに似せて造られたいのちの永続性についてであり、暮らしは、神によって造られたのですから、肉の糧だけでなく、霊的糧の必要性を説いています。詩篇23篇のテーマでもあります。
そこで、先に救われた者としてどのように生きるのか、また愛する者にどのように伝えればよいのかについて、みことばに聞きたいと思います。
マタイによる福音書8章5〜13節で、イスラエルを支配していたローマ兵の百人隊長が、イエスの所に来て懇願します。彼は、イスラエル人ではなく、私たちと同じように異邦人で、決して旧約聖書に精通していたわけではありません。どうしてイエスの所に来たのでしょうか。おそらく、イスラエルに赴任してからイエスの言動に接していたのだと思います。
ある時、千載一遇のチャンスが訪れました。イエスがカペナウムに入られたのです。彼の願いが、しもべの癒しです。中部で苦しんでいたのです。「寝込んでいる」は、起き上がることができない重篤さであったことを示しています。イエスは、いつものように「行って彼を治そう」と求めに応えられます。百人隊長は大変喜んだと思います。たった一人の病人のために来てくださるのですから。
しかし、百人隊長は答えます。「主よ。」この呼びかけは、すでにイエスを主としている信仰が垣間見えます。ローマ兵にとって「カイザル」が主だからです。「あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません。」当時、イスラエル人は異邦人の家に招かれてはいけなかったのです。軍人でもある彼の実直さがうかがえます。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべはいやされます。」
彼は、「みことばに権威(力)がある」ことを信じていたのです。軍隊は、階級社会です。いわゆる上官の命令は絶対です。Noはありません。彼は、みことばの権威を受け入れたのです。
パウロはエペソ人への手紙6章19節「終わりに言います」で、偶像礼拝が盛んなエペソとその教会に遺言的なメッセージを伝えます。書き出しは「主にあって・・・」に始まり、「その大能の力によって強められなさい。」これは、世の力、悪魔に対する格闘ですから、「神のすべての武具を身に着けなさい」ダビデはゴリアテと戦った時には鎧を脱ぎ、武器は小石でした。ですが、ここでは「神のすべての武具を身に着けなさい」その武装は「堅くたち」、自分の立つ位置を自分ではなく、堅い基礎(岩)の上に立ち・・・。これらは、イエスを救い主として信じた、救われる、「主にあって」からです。「足には、平和の福音の備えをはきなさい。」足は行動を表し、「平和の福音」は、神と人との和解のメッセージをもつてです。武器は何かというと福音「みことば」です。
それは、相手に聖書を渡して「一度読んでみてね」ではなく、自分の口で伝える必要があるのです。なぜかというと、多くの人は創造主を知らないし、聖書を誤解したり思い込んでいるからです。
例えば「世界にはたくさんの神々があり、聖書の神もその1つと考え、あるいはキリスト教は西洋の神」と思い込んでいます。「はじめに神が天と地を創造した」という、世界を創造した唯一の神がおられる事も、福音の大切な要素です。それは、宇宙の創造から、私もあなたも神が創造された、愛されているいのちの存在だというのも大切です。百人隊長が「おことばをください」と願ったのも、イエスのことばに権威があり、しもべの病をいやされる力だと信じたからです。