神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒すため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
イザヤ書61章1節
敬拝
- 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
- 祈り
- 勧め 「インマヌエルの主」詩篇23篇1〜6節
- 献金
- 報告
- 頌栄
- 祝祷
教会からの報告・案内
- 会堂での礼拝のお休みが続いています。今のところ、県の緊急事態宣言の解除の日(2021年9月12日予定)までです。
- 献金される方は下記に振り込むことが可能です。
沖縄海邦銀行 普天間支店 店番:042 口座番号:653969
単立 恵みバプテスト教会 - このような状況下、皆様の霊肉共に守られるように心からお祈りいたします。
この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。
メッセージ
インマヌエルの主
詩篇23篇1〜6節
詩篇22篇は「良き羊飼いであられる主の十字架」、23篇は「良き羊飼いであられる主の生涯における守り」、そして24篇は「やがて迎えに戻って来られる主(ヨハネの福音書14章3節)」の預言です。
23篇は、主の前に羊のようであるダビデの一生を証し、羊飼いであられる主を信頼し賛美しています。
ダビデの賛歌は「主は私の羊飼い」で始まります。良き羊飼いに出会うまでは、主がなく、自分が主であり、自分の感覚で生きていました。いわゆる「迷子の羊」状態で、人生の意味も、正しい目的も、永遠に至る生きがいもない、ただ死を待つだけの歩みのようでした。
しかし、ある日「自分の創造主」に出会い、この方を主として歩む道のりが与えられました。それまでは乏しさを回避するための歩みでしたが、すべてをゆだねることができる主は、私は乏しさを恐れていることから解放してくださったのです。
人は生きるためには、2つの食べ物が必要です。それはパンと水です。パンは身体を養い保ちます。水は聖書では「みことば」を意味し、霊的な食べ物と言えます。
「緑の牧場」に伏せさせることは、羊に必要な青草を確保されています。「いこいのみぎわ」は「いこい」は平安を意味し、「みぎわ」は水辺を指します。心の平安と主と共にあることで与えられます。
と言うのは「水辺」は、他の獣も集まり、その場所は谷底にあることが多い危険と隣り合わせの場所です。詩篇42篇1節の「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」は、安全な水辺を求めて降りる所を探している情景です。
「主は私のたましいを生き返らせ」人生は出会いで決まると言われています。その生涯で色々な出会いがありましたが、「主」との出会いが、私の人生を180度変えました。今まで「自分が生きている」と思っていましたが、実は「神に生かされていた」のです。それは罪の中にあった私の罪の罰を身代わりに受けてくださった主イエスとの出会いであり、信仰によって生かされ、生かされる生涯が始まったのです。
「御名のゆえに」
「御名」は神の権威を言います。例えば、罪を赦す権威は神のみです。他の誰かが、あるいは何かが赦すと言っても権威はありません。ユダヤ人たちが、イエスがいやしをされるだけでなく、罪を赦されたことに立腹したのもそのためです。
イエスは権威者です。その権威をもって「義の道に導かれます」神の道、それは主イエスです。新しく生まれた者は、義なる方の道を歩ませてくださるのです。
たとえ「死の陰の谷」を歩むことがあっても、獣と谷という危険な綱渡り人生であっても「わざわい」を恐れません。なぜ「インマヌエルの主」と共にあるからです。それは鞭も杖も慰めです。
「食卓」は交わりです。香油は聖書の油注ぎです。
私の「杯」はあふれています。杯は契約を意味し、神からの一方的な契約は、恵みによる信仰の契約ですから、何があっても、どのような時にも、反故になることはありません。「あふれている」は満たされている、充分です、あまりあります、などの意味です。
それは「私のいのちの日の限り」地上でも生涯に渡って「いつくしみと恵み」がついてまわります。
私は「いつまでも主の家」に住まいます。神の家は永遠の家です。
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」ヨハネの福音書14章3節