2020年7月5日

この地が続く限り、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。
創世記8章22節

敬拝

  • 黙想 静かに礼拝に備えます
  • 賛美 心を込めて主をほめたたえよう
  • 報告
  • 祈り
  • 勧め 「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」出エジプト記20章8〜11節
  • 祝祷

教会からの報告・案内

  • 午前10時の中城礼拝は、午後から配信しています。先週は6名の方がインターネットで参加してくださいました。続けて用いられますように。
  • 聖書の学びは火曜日午後3時からと、水曜日午後8時から、土曜日午前11時からあります。対策をしながら祈りつつの集まりです。特に水曜日の午後8時からは共に祈りを捧げています。

この新型コロナウイルスが制されるように心からお祈りいたします。
愛する皆様の健康が守られますように。

今週の予定

7月5日(日)10:00一般礼拝 創造主を賛美し、礼拝します。
教会楽校 礼拝の中で子供たちがクラス毎に聖書を学びます。
7月7日(火)15:00聖書の学び
7月7日(水)20:00聖書の学び、祈りの時
7月11日(土)11:00聖書の学び

メッセージ

「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」出エジプト記20章8〜11節

この世界は創造主が人間が生活できるように配慮をもって造られています。大空、自然、動植物などそこかしこに神の配慮が見られます。またそれは造られるだけでなく、その稼働も格段の配慮があります。四季、昼夜、動物の冬眠、24時間の1日、昼間働き夜は睡眠による休み、そして7日間で1週間・・・その7日間のうち1日を「安息日」とされました。始まりは主が6日間で世界を完成させ、7日目を休まれたこと、それは安息日をもつことで創造主が天地万物を創造された真実を知り信じることの証です。人は全く睡眠をとらずに24時間、1週間168時間、仕事を続けるならば、心も体もすぐに破壊されてしまいます。1日のうち睡眠時間をとり、1週間のうち1日を休むことは長寿の秘訣であり、働きもはかどる事は誰も否定しないと思います。

そこで「安息日」とは何か、安息日を聖とするとは何かを考えてみたいと思います。なぜならば、安息日は預言と大きな関係があるからです。

1、主は6日間で天地万物を造られ7日目には休まれたことは、世界歴史と関係があります。世界は7つの時代に区分することができ、第6の時代は「艱難時代」で「火のバプテスマ」に世界は入り、7日目の休みは「千年王国・神の国」を示しています。

2、人間も、6日間自分の糧のために働き、7日目は神を賛美し栄光を帰すことで「聖」としているのです。

それは、休みだから家でゴロゴロしていることではなく、6日間の働きを感謝し、明日を委ねる礼拝をし、霊肉共に回復せらるる「憩い」の日でもあります。

主は特にいやしを安息日にされました。それは未来における神の国は「安息」だからです。この様子は黙示録21章3〜4節に示されています。

「見よ。神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」新天新地です。

3、安息日は解放の日です

ヨハネの福音書9章1〜7節で「生まれつきの盲人のいやし」の記事があります。当時、盲人で生まれることは罪の結果だと思い込んでいました。弟子たちも同じでイエスに質問したのです。彼は生まれつきの盲人ですが、私たちは生まれつきの罪人です。その罪から解放し、霊肉共にいやされるために主は来られたのです。イスラエルには律法の書「タルムッド」がありますが、その中には「安息日にはタオル(布)を持ってはいけない。」汗をかくことを想定していることになるから、それでも暑いから汗をかくなら、その汗は地面に落ち、たまたまそこにある種子に汗が入り発芽する。それは耕作する律法違反だと考えました。

そこでイエスは安息日に「地面に唾をして、泥を作られ、目に塗られた。」これは水分を落とし、耕作をし、治療をするという3つの律法違反になります。その後主は「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じられました。この時は目は見えません。ただ「ことば」だけです。彼は、そのことばを信じる信仰を表す必要があります。みことばに従う行いです。洗った時開眼したのです。まさに水と御霊によって新生した瞬間です。

4、仮庵の祭

この奇跡は仮庵の祭の時でした。仮庵は出エジプト時、40年間のテント生活を記えるためのものです。それは現在私たちは父が用意してくださっている「天の幕屋」を目指して歩む肉体という仮の住まいの中で旅している状態です。この仮住まいは、内に宝がありますが、外なる私は「日々衰えています」。仮庵の祭は、やがて与えられる「天からの住まい」(ヨハネの福音書14章2節)に焦点を合わせている信仰による希望です。土曜日ではなく、日曜日を休みとするのは、復活の勝利を与えられていることの証です。それは①主の求めであり②復活を記得るためであり③心と身体のリズムを整える神の恵みの配慮です。